2012年10月27日土曜日


日韓関係の改善のために(68)「金玉均の日本視察(20121027)

 朝鮮の開化・独立のため獅子奮迅の活躍をし、クーデター(甲申クーデター)を起こしたが清国の介入により失敗し、その後日本に亡命し、日本名を名乗って日本国内を転々と移動し、最後に上海に逃れたところで、清国との縁を断ち切ることができない李朝が差し向けた刺客に暗殺されてしまった金玉均の遺体は、朝鮮に船で運ばれ、その屍に対しても凌遅刑という刑が科せられた。呉善花著『韓国併合への道 完全版』には、そのおぞましい刑により切り刻まれ、胴体が揚花津港にさらされている写真が掲載されている。

韓国では“併合条約に調印した総理大臣李完用らをはじめとする多数の「親日派」ならびに「併合推進派」の人々に「売国奴」の烙印を押したまま、いまなお赦そうとはしていない。ただ金玉均については、北朝鮮の方が早かったが、韓国でも大分前から高く評価するようになっている。ただ、そこでの金玉均は「日本の侵略を助けた親日派なのではなく、日本の裏切りによって政治改革を挫折させられた、朝鮮で初めて近代的な改革を推進した人物」とされている”そうである。以下同様、呉善花著『韓国併合への道 完全版』より“”で引用する。

 “金玉均は長崎で地方議会、裁判所、小中学校、師範学校、電信施設などを見学し、大阪では府知事らと会見して練兵場・印刷所・建設会社などを訪れている。また京都では毎日各地を見物するほか、府庁訪問、第二回内国博覧会見学、盲啞院見学など、精力的な活動を展開している。
 金玉均は京都へ着くと東本願寺を訪問する。李東仁の紹介を受けてのものだったろう。東本願寺は金玉均の到着を東京三田の福沢諭吉に連絡し、福沢は三田在住の東本願寺派の僧侶を迎えにやっている。金玉均は東本願寺の客館を宿として京都を見物し、迎えに来た僧侶とともに東京に向かい、東京に着くや、時をおかずに三田の福沢邸を訪ねている。 金玉均が東京に入ったのは五月三〇日頃のことだった。
 
 日本にはすでに紳士遊覧団の一行として渡日し、そのまま日本に留学していた兪吉濬、柳正秀、尹致昊がいた。通訳には慶応義塾の留学生兪吉濬が当たり、金玉均一行は三田の福沢邸を拠点にほぼ二ヵ月の間、ほとんど休むことなくさまざまな人物と会っては意見を交換し、政治・経済・軍事の全般にわたる主要施設に足しげくかよいつめたのである。

 福沢の紹介による政界の井上馨・大隈重信、財界の渋沢栄一・大倉喜八郎らをはじめ、榎本武揚、副島種臣、内田良平など、民間人を含む多数の人々と、ほとんど連日連夜の会合をもっている。
 また横浜の清国公使館をはじめ、各国の領事館もくまなく訪問しており、外国事情の収集にも余念がなかったことが知られる。各省庁や民間施設の視察にも多くの時間を割き、適宜、李朝政府に必要と思われる機材の発注もしている。・・(中略)・・
 七月末、金玉均一行は東京を発って神戸から船に乗って帰国の途につくが、下関に着いたときに壬午軍乱の知らせを受け、花房公使の乗る明治丸に同乗して帰国している。”