2012年10月30日火曜日


日韓関係の改善のために(71)「福沢諭吉の影響(続)(20121030)

 以下は重要な部分である。呉善花著『韓国併合への道 完全版』より全文引用する。
 “二回の渡日で金玉均は福沢から多くのことを学んだが、それについて田保橋潔氏は名著『近代日鮮関係の研究』のなかで次のように述べている。
 「福沢諭吉及びその門下が、近代朝鮮の政治文化に与えた影響は大きい・・・・・福沢は彼らに政治学の初歩を教え、全世界の文明国は、日本初め完全な主権を有するが、ひとり朝鮮は二千年の文化を有しつつ、老大国清の蕃属に甘んずる実情を理解せしめた。福沢の教を受けた朴泳孝・金玉均は、初めて独立・自主の真の意義をさとり、これが実現に邁進するに至ったといっても過言でないであろう。」(田保橋潔『近代日鮮関係の研究』上/朝鮮総督府中枢院)
 
私も金玉均らが「独立・自主の真の意義」をさとったのは、福沢諭吉を通してだったことはまちがいないと思う。実学も仏教も清国の文献も、近代的な主権をもった独立国家というステージへの手がかりを与えるものではなかった。そして金玉均はもちろん、劉大致にも呉慶錫にも、洋書を読解するだけの語学力はなかったのである。

 ちょうどその頃から、李朝はアメリカ、イギリス、ドイツ、ロシアと次々に修好条約を結んでいくが、当時の李朝には条文の欧文を正確に読んで理解できる者が育っていなかったという。

 金玉均は第二回目の日本滞在でも、会合や視察などに精力的な活動をみせている。福沢もまた彼に対して前回以上に各方面での援助をおしまなかった。
済物浦条約による賠償金五〇万円の支払いでは、福沢が井上馨外務卿を紹介し、井上を通じて銀行から李朝政府に資金を融通させている。返済期間も五年返済から一〇年返済へと延ばされた。
一行は李朝政府の名義で横浜正金銀行から一七万円を借り、そのうち第一回分として五万円を日本政府への支払いにあて、残り一二万円のうち六万円ほどを、政府軍用の武器や活字・活版印刷機の購入費、留学生費用、旅費、雑費などにあて、数万円を持ち帰って国庫に入れている。

修信使一行は、金玉均・徐光範ほか二名を残して翌年の一八八三年(明治一六)一月、朴泳孝、金晩埴以下一〇名が復命のために帰途についた。前後して閔泳翊も、アメリカへの初使節として渡米する準備のため帰国した。このときに、慶応義塾の留学生兪吉濬や壬午軍乱を逃れて日本に亡命していた尹致昊の父尹雄烈(別技軍隊長)も一緒に帰国している。その後の金玉均らの通訳には尹致昊があたっている。尹致昊はようやく一七歳、なんとも若い。

福沢は帰国する朴泳孝らの一行に、門弟の牛場卓蔵、高橋正信、井上角五郎に加えて、印刷技術者二名、元軍人二名を同行させている。目的は新聞の発行、洋書の翻訳、洋楽の普及などをはじめとする文化活動の援助である。”(続く)