2012年10月8日月曜日


日韓関係の改善のために(49)「日本の対朝鮮・清国政策の転換(続)(20121008)

 新潟県北部、胎内市にある古墳時代前期(4世紀前半)の古墳から、銅鏡や勾玉(まがたま)など、近畿地方でみられる副葬品がそろって出土したという。従来こうした副葬品が出土した北限は会津若松市の大塚山古墳であるという。『古事記』には崇神天皇の代に大毘古命(『日本書紀』では大彦命)がその子・建沼河別命が相津(会津)で出合ったと書かれている。これは大毘古命と建沼河別命がそれぞれ天皇の命を受け、未だ大和政権に服従していなかった東北地方の豪族たちを大和政権に従属させたが、その豪族たちの子孫の墓からそれらの出土品があったということである。崇神天皇の在位は紀元前97年から30年であるから、その頃から会津を挟む日本海側と太平洋側を結ぶ道があったということである。

 日本で最後に天皇の臣下になった豪族は琉球国王である。初め薩摩藩が奄美列島の島々薩摩藩の施政下に入れ、結果的に江戸幕府の施政下・天皇の統率下に入れた。薩摩藩は貿易の利便のため琉球をシナ(中国)の華夷秩序下に置いたままにしていたが、明治維新後琉球は本来あるべき形として新政府の施政下に置かれただけのことである。竹島も尖閣も同様である。それを日本の力が弱ったときに、韓国は勝手に李承晩ラインを引いて竹島を不法占拠し、シナ(中国)は尖閣や沖縄などは元々シナ(中国)の領土であるから取り返すのだと言っている。「日本人よ、神武天皇以来万世一系の皇統のもとに樺太・千島列島から八重山諸島に至る島々を、縄文人そして渡来系弥生人と混血した我々日本人が住んでいた島々が元々日本の領土であることを、また古代の朝鮮半島南部にも日本人(シナ(中国)は「倭人」と呼んでいた)が住んでいたことを深く自覚せよ!」

  善花著『韓国併合への道 完全版』より括弧(“”)で引用する。
 “日本は明治新以来富国強兵策をとり、飛躍的な発展をみせながらも、その経済力も軍事力もいまだ世界の強大国に比肩できるものではなかった。しかも、欧米列強とは不平等条約を結ばされていた。いかに清国の朝鮮への干渉を排除したくとも、清国と戦争するまでの考えをもつことはできなかった。

 日本はこれまで一貫して金玉均ら独立党を支援することで、朝鮮の中国からの独立と近代的な改革を目指していた。その朝鮮の独立と近代化という基本線に変わりはなかったが、日本は清国の干渉強化によって、従来の対朝鮮政策を修正すべきだとの判断をしたのである。

 つまり、清国の干渉が強まれば、李朝政府内部での独立党の動きが大きく制限されることになってしまい、これまでのように独立党への支援を通して日本の影響力を増す、という方法が難しくなる。そればかりではなく、あからさまな支援は清国を刺激し、それだけ日本への反発を強めるだけだ。そこで、独立党への支援を限定し、経済的な利権の獲得によって勢力の拡張をはかっていく方針をとるようになっていた。”(続く)