2012年10月1日月曜日


日韓関係の改善のために(42)「清国と日本の出兵(20121001)

 フジテレビで池上彰氏が2時間にわたり尖閣・竹島問題について講義していた。これを視聴して尖閣・竹島問題について知識を得た人は多いことだろう。途中からしか視聴していなかったので多少色眼鏡で考えるが、竹島について池上氏は「日本が1905年に朝鮮の支配を開始した」と言って、その理由・背景については全く触れなかったし、韓国が自国の古地図を改ざんし、古地図上で鬱陵島の西側にあった于山島を東側に移してまでしてそれを「独島」として博物館で展示し、韓国民に嘘の歴史を教えこんでいる実態についても触れなかった。池上氏はこの二点について意図的に触れなかったのではないのか?

 韓国資本が30%も入っているフジテレビは連日韓国ドラマを放映し、社屋に掲げられている日章旗が傷んでぼろぼろになっているにもかかわらず取り替えなかった。そのフジテレビで池上氏が肝心なことを抜きにして竹島問題について講義しているのは、フジテレビ側から何らかの影響を受けているのだろうと疑われる。日本のメディアを利用した韓国による工作は実に巧妙であると思う。それでも戦後近現代歴史教育を十分受けてこなかった日本の一般国民は、竹島の問題についてかなり知識を深めることができたことであろう。

引き続き呉 善花著『韓国併合への道 完全版』より括弧(“”)で引用する。ここでは一八八二年(明治一五)七月二十三日に起きた軍乱と、大院君の政権復帰後の状況に関連して、当時の日本とシナ(中国)との間の緊張した関係について説明されている。

軍乱で襲撃を受けた花房公使らは日本公使館から脱出し、“帰国した花房公使から軍乱の報告を受けた日本政府は、居留民保護と朝鮮政府に軍乱の責任を問いただすために、花房公使に軍艦と兵士を率いさせて朝鮮に派遣した。さらに後続を加え、日本は軍艦四隻、輸送船三隻、陸軍砲兵千数百名を仁川に集結させた。八月十六日に仁川に着いた花房公使は二個中隊を率いて漢城に入り、二〇日に王宮内で国王高宗に謁見した。・・(中略)・・

清国政府が軍乱勃発の知らせを受けたのは八月一日だった。その頃、たまたま閔氏政権政府の開化派官僚金允植と魚允中が天津に滞在していた。二人は清国北洋大臣李鴻章の代理、張樹声から事件の経緯を聞くと、「これは政府の開国策に反対する大君院勢力の反政府クーデターにまちがいない」と述べ、「日本軍が出動して反乱軍と衝突する可能性がある」として、清国に調停のための派兵を要請した。”

 これを受けた張樹声はただちに軍に出動を命じた。北洋水師提督の丁汝昌が三隻の軍艦を率い、外交交渉役の馬建忠を乗せて、八月十日に仁川に到着。さらに広東提督の呉長慶が三隻の軍艦と三〇〇〇名の兵を率いて、二〇日に仁川から四〇キロ離れた南陽湾の馬山浦に到着した。馬建忠は漢城へ向かい、清国軍もその後から漢城に進駐して日本軍を圧倒する兵力を配置した。”(続く)