2012年10月21日日曜日


日韓関係の改善のために(62)「独立党(20121021)

李朝時代の志士たち、すなわち独立党のメンバーは、日本で言えば平安時代の政治の中枢にいた公家たちの息子たちのような立場の若者たちであった。平安時代、朝廷の政務は公家たちが行い、その実務は公家ではない諸大夫階級が担っていた。李朝の開化派の志士たちは貴公子たちであったが、明治維新を成し遂げた幕末の日本の志士たちは、土佐や長州や薩摩の下級士族たちであった。其処には彼らに期待する先見の明ある藩主たちがいた。

善花 女史は『韓国併合への道 完全版』の中で、新羅時代の花郎(ファラン)精神は日本の武士道精神に近いものがあり、それは現代の韓国軍の軍人教育にも流れているという。以下“”で引用する。

“独立党のメンバーには・・(中略)・・などがいた。後に彼らが国家を根底から揺るがすクーデターを引き起こすのだが、そのとき、金玉均は三〇代であり、メンバーの大半は二〇代前半の若年であった。独立党の中心メンバーは若いだけではなく、その多くが将来を嘱望される両班の息子たちだった。とくに金玉均、朴泳孝、洪英埴、徐光範らは、いずれも政権中枢の重職を担う最高級の官僚を父にもつ、いわば貴公子たちであった。なかでも朴泳孝は前国王の娘婿で、王家から錦陵尉の称号を与えられた準王族、貴公子中の貴公子だった。ひとくちに言えば、独立党は若き貴公子たちが指導した集団ということになる。・・(中略)・・

私は彼らが開化独立を旗印に結束したところに、新羅時代の花郎(ファラン)精神の伝統を感じるのである。新羅では上級貴族の子弟で一五、六歳の男子を指導者として花郎と称し、その下に数百人から千人の青壮年たちが結集して花郎徒という集団をつくっていた。彼らは学問・芸術・武芸を磨いて肉体と精神を鍛え、戦時には勇猛な戦士集団として活躍した。

花朗は戦場では常に先頭に立って戦い、けっしてひるむことがなかったという。義のために国家のためには自らの命を捧げることをいとわず、友のために命を捧げることも清く美しい行為とされた。日本の武士道精神に近いものと言える。
花郎精神は新羅時代以降、儒教、仏教、道教などの影響を受けて独自の発展をとげ、現代韓国の軍人教育にもこの花郎精神が流れている。

文人主義の国韓国では、大学生は社会の期待を一身に背負った誇るべきエリート集団として尊重されてきた。戦後、韓国の学生運動には確かに「暴走」があったかもしれないが、彼ら学生戦士たちの意識の底にも花郎精神が流れていたことは、私の体験からも確かなように思える。
彼ら独立党が日本に大きく惹かれたのは、彼らの花郎精神が日本の武士道精神と共鳴するところがあったかもしれない。”(続く)