2012年10月29日月曜日


日韓関係の改善のために(70)「福沢諭吉の影響(続)(20121029)

 日本は李氏朝鮮で1882年(明治15年)723日に起きた壬午軍乱で日本人が殺害されるなど被害を受けた。李氏朝鮮はその損害の賠償金50万円を日本に支払うことになった。しかし李氏朝鮮にはその資金がなかったため、日本がその資金を融通したのである。それほどまでして当時の日本は李氏朝鮮が「自主の邦」になるように懸命な努力をした。日本は金玉均に期待し、特に福沢諭吉が先頭に立って金玉均に親身な支援をした。今の韓国はこのような日本の気持ちを少しも汲まず、“金玉均は「日本の侵略を助けた親日派なのではなく、日本の裏切りによって政治改革を挫折させられた、朝鮮で初めて近代的な改革を推進した人物」”として日本を逆恨みしている。真に残念で腹の立つことである。

韓国が日本の良き隣国になるのはいつの日のことか!絶望の気持ちを抱きながらも一縷の望みをかけている。先ずは日本人自らが日本と韓国の間の歴史について、正しく、良く知り、日本が韓国に一切の依存・依頼心を持たないことが最も重要であると思う。そして竹島やいわゆる従軍慰安婦などの問題に見られるような韓国の不条理な言動に対しては、日本は何一つ臆することなく、毅然とした態度で韓国に接することが重要である。日本はそういう国にならなければならない。石原慎太郎氏の目指すところや「大阪維新の会」が目指すところに大いに期待している。

 “壬午軍乱後に結ばれた済物浦条約で、李朝は日本に対して五〇万円の賠償金を支払うなどの取り決めをした・・(中略)・・賠償金五〇万円の支払いでは、福沢が井上馨外務卿を紹介し、井上を通じて銀行から李朝政府に資金を融通させている。返済期間も五年返済から一〇年返済へと延ばされた。”引き続き括弧(“”)で、呉善花著『韓国併合への道 完全版』より引用する。

 “金玉均の第二回目の渡航は一八八二年(明治一五)九月だったが、そのときにも福沢邸を訪れている。その当時、日本の新聞は金玉均に注目して多くの記事を書いているが、そのなかにはあらぬ噂から人格攻撃にまで及ぶものもあった。福沢はそうした新聞への反論として、「金玉均の全貌」と題した『時事新報』の社説で、かれの人物と経歴を紹介し、金玉均を擁護しながら次のように書いている。

 「日韓の交際日に繁多なるの時に際して、我日本の友たる可き者は彼の開化者流の外に求む可からず。而して金氏の如きは党中の巨擘なれば其平生の顛末を記して人の惑を解くは我朝野の為に大切ならんと信じて敢へて爰に筆労を厭はざるものなり」(石河幹明箸『福沢諭吉伝』第三巻/岩波書店所収『時事新報』「社説」一八八二年九月一一日)”

 福沢は、かつて自らも若き日にヨーロッパを訪問し、文明・文化の落差のために誤解を招いた、身につまされる体験があって、こうした心配りをみせたのではなかったろうか。”(続く)