2012年10月23日火曜日


日韓関係の改善のために(64)「開化派官僚が果たした役割(続)(20121023)

 日本と韓国の関係が良好な状態になるまでにはまだまだ相当時間がかかるであろう。恐らく数世紀もかかる可能性がある。人と同じように国家にも受け継いだ「DNA」があり、「心」があり、「性格」がある。人と同じように国家にも「深層心理」や「無意識の行動」もある。人が自己変容を遂げようとするとき、人は自らの心の深奥にあるものを知る必要があるが、自分の心の深奥にあるものは、一般的には自分自身ではなかなか認識することはできないものである。国家も同様であるだろう。

人は自分自身を変容させることに少しでも進展を感じることがあれば、それをきっかけにますます自分自身を知る機会を多く持つことができるようになるに違いない。そうすれば人は自分自身に潜む問題を自分自身で発見することができるようになるだろう。「問題の発見」を妨げるものは三つある。それは「文化」と「知識」と「感情」である。国家も同様で、この三つが国家に潜む問題の発見を妨げる要素になっていると思う。

李朝末期、金玉均ら若き貴公子たちは、若いが故に柔軟な思考をすることができた。彼らが日本に学ぼうとし、ロシアを警戒し、シナ(中国)に失望したのは、李朝に潜む問題に気付いたからであると思う。彼らは世界に目を向け、未来に目を向け、自分たちの国・朝鮮はどういう進路を進むべきか知った。しかし悲しいことにその若い芽は保守的な思考しか出来ない年寄りたちに潰されてしまった。日本の明治維新の場合、若いエネルギーを生かそうと考えた先見の明があり権力もある藩主たちがいた。日本の場合、漢学は朝鮮のように朱子学だけに凝り固まってはいず、陽明学も盛んであり、さらに蘭学も盛んであった。引き続き呉 善花 著『韓国併合への道 完全版』より、“”で引用する。関連:2012913日木曜日 『日韓関係の改善のために(24)「日韓ボタンの掛け違いは何故起きたか(続)」(20120913)』、2012914日金曜日 『同(25)「砲艦外交に出た日本」(20120914)』、2012915日土曜日 『同(26)「砲艦外交に出た日本()(20120915)

 “金玉均は、江華島での日朝交渉に通訳として参加していた呉慶錫が漢城に戻るたびに、彼と会い、彼が語る日本人の印象や日本の国情について熱心に耳を傾けた。また劉大致は魚允中が紳士遊覧団で日本へ行った際の見聞と、上海・天津での見聞をまとめた『中東紀』を高く評価し、その写本を金玉均に貸し与えるなどして、金玉均にしきりに日本行きを勧めている。
 『中東紀』によれば、魚允中(当時三三歳)は遊覧団のなかで主として大蔵・財務関連の調査を担当したが、日本財閥の巨塔渋沢栄一から資本主義経済についてのさまざまな知識を得ている。また彼は李東仁の紹介で福沢諭吉とも会い、福沢の広汎な識見に感じ入ったという。そのため魚允中は、一行の兪吉濬(二五歳)と柳正秀(ユジュンス)を福沢家に託して慶応義塾に留学させ、また尹致昊(一六歳、父は別技軍の責任者尹雄烈)を同人社に託し、英語を学ばせようと留学させている。”(続く)