2012年10月24日水曜日


日韓関係の改善のために(65)「開化派官僚が果たした役割(続)(20121024)

大分県日田市に「咸宜園(かんぎえん)」という塾の史跡があり、広い敷地の中に秋風庵やこの塾を創設した広瀬淡窓の書斎などの建物が残っている。日田市ではこれを往時の姿に復活させる計画を推進している。秋篠宮殿下も此処を訪れている。

咸宜園(かんぎえん)は、屋号を堺屋とする商家の五代目三郎右衛門(さぶろううえもん)(桃秋(とうしゅう))の長男として天明2年(1782年)に生まれたが家督を弟に譲って学問の道を歩んだ淡窓が開いた私塾である。この私塾には全国の68ヶ国中隠岐と下野(しもつけ)(現在の栃木県)を除く66ヶ国から学問を求めて集っていた。日本では江戸時代後期に全国各地に藩校(はんこう)や私塾(しじゅく)ができ、教育への関心が高まっていた。淡窓は、文化2年(1805年)に長福寺というお寺の学寮で開塾し、その後、場所や名前を「成章者(せいしょうしゃ)」「桂林園(けいりんえん)」「桂林荘(けいりんそう)」と変えて、文化14年(1817年)に「咸宜園」を開いた。

江戸時代には武士の子弟が通う藩校などの他、私塾があった。私塾には陽明学学者・中江藤樹(なかえとうじゅ)(16081648)の「藤樹書院」、朱子学と陽明学を融合させた学者・池田草庵(いけだそうあん)(18131878)の「青谿書院(せいけいしょいん)」、蘭方医(オランダ医学の医師)・緒方洪庵(おがたこうあん)(18101863)の「適塾(てきじゅく)」、時事問題を重視し漢学も教えた教育者・吉田松陰(よしだしょういん)(18301859)の「松下村塾(しょうかそんじゅく)」などがあった。

淡窓は商家の出であったが功績を認められて士分となり、名字を名乗り帯刀することが許された。ちなみに身分や階級制度が厳しかった江戸時代でも、農民から士分になった二宮金次郎などの偉人がいた。逆に自ら申し出て士分から町人になった人もいた。士農工商の身分や上士・下士の階級制度は世襲を基本とする「役割」の制度であって、人々はそれぞれの役割で最善を尽くすことが求められた。従って商人の中には財をなし、地方行政の一翼を担い、淡窓のように日本中に名をとどろかせた立派な教育者になった人もいる。大村益次郎は郷里長州(今の山口県)に戻ってから高杉晋作らと共に討幕に身を投じている。高野長英は長崎でシーボルトの蘭学塾鳴滝塾で学んだあと咸宜園に入門した。彼は弾圧を受けながらも開国を訴え続けた信念の人であった。

咸宜園では「三奪法」といって、入門者に学歴・年齢・身分を問わず、すべての門下生を平等に教育していた。その一方で塾生ひとりひとりの学力を客観的に評価・判断して席次をつける「月旦評(げつたんひょう)」という制度や、全寮制であるので毎日規則正しい生活を実践させる「規約」や、門下生に塾や寮を運営させる「職任(しょくにん)」の制度などが定められていた。日本では封建時代においてもデモクラシーが息づいていたのである。

 門下生になるためには米百俵が必要であった。今のお金に換算すると200万円ほどかかった。江戸時代、為替制度が発達していて「職任」の「主簿」という役目に任じられた塾生は、入門者の郷里から為替が送られてきているかどうか確認していたという。

咸宜園になぜ全国各地から人が集まったかというと、咸宜園での教育内容が当時としては最高水準の九級までの教育が行われていたからである。一般の私塾や藩校における教育水準は五級程度までであったから咸宜園における教育レベルは飛び抜けて高かった。入門者は咸宜園で高い水準の教育を身につけて郷里に帰れば、その郷里では立派な学問を身につけた人として尊敬され、私塾を開いて庶民の教育に尽力することができた。咸宜園出身者の中には大村益次郎、高野長英ら蘭学者になった人や、鹿児島・久留米・佐伯などの各藩校の教授になった人や真宗の僧侶になった人などがいる。

17世紀に生きた中江藤樹は日本における陽明学の祖とされる。彼の教育の理念の特徴は、教育の対象が武士だけではなく一般民衆にも教育の機会を設けたところにある。藤樹は自らを省みて心を慎む日々を重んじ「致良知(ちりょうち)(良知に致る)」という言葉で説いたという。幕末に生きた緒方洪庵の弟子には、李氏朝鮮の金玉均ら開化・独立派若手官僚たちを支援した福沢諭吉がいる。

幕末から明治初期に生きた池田草庵は農家の出身であった。草庵は豊岡藩・出石藩・福知山藩の藩校でも講義している。松陰の門下生には大村益次郎とともに討幕運動に奔走した高杉晋作や、今、韓国で最も嫌われているという伊藤博文らがいる。日本人の知的水準の基礎は江戸時代の藩校や私塾における教育にあったと言える。それは遠く奈良時代に聖武天皇が奈良に総合大学である東大寺を創建し、東大寺で学んだ僧侶たちが勤める国分寺・国分尼寺を全国各地に作り、日本人の教育水準を高める基礎を築いて下さったからである。日本人が日本における古来の教育制度について良く知っていることは重要である。引き続き呉 善花 著『韓国併合への道 完全版』より、“”で引用する。

“金玉均は国王に、盛んに自らを日本に派遣するように働きかけたという。国王高宗としても、将来有望な若手官僚たちに日本の見聞を深めさせることに異存はなかった。また高宗は金玉均より一歳下の同世代ということもあって、若くて才気のある官僚たちの親分格のような金玉均に対して、ことのほか大きな期待を寄せているようであった。
高宗は金玉均、朴泳孝、閔泳翊、徐光範の四人を特別に日本へ派遣しようとしたが、朴泳孝と閔泳翊は都合がつかず、金玉均と徐光範が渡日することになった。金玉均は三一歳、徐光範は二三歳であった。金玉均が釜山を発って日本に到着したのは、一八八二年(明治一五)三月のことだった。”(続く)