2012年10月2日火曜日


日韓関係の改善のために(43)「清国と日本の出兵(続)(20121002)

 明治15年(1882年)8月、漢城(現在のソウル)で日本軍と当時のシナ(中国)軍は衝突寸前の状態にあった。当時のシナ(中国)・清国は李氏朝鮮の宗主国であった。たまたま天津に滞在中だった開化派官僚金允植と魚允中は、日本軍が李氏朝鮮軍と衝突することを恐れて清国に軍隊の派遣を要請した。この要請を受けて清国は日本軍の軍勢を大きく上回る軍勢をソウルに配置した。古代以来朝鮮半島の国々は、常にシナ(中国)の支配下に置かれてきた。今の韓国や北朝鮮はシナ(中国)を恐れている一方でシナ(中国)と手を組むようなことをしている。そのような国々が日本の隣国である。日本が韓国を併合していたときは、シナ(中国)は朝鮮半島に手も足も出さなかったが、朝鮮戦争ではシナ(中国)は朝鮮半島に軍(毛沢東の中共軍)を送り込んだ。当時マッカーサー元帥は原子爆弾を使用してでも中共軍を朝鮮半島から追い出そうとし、更迭された。

シナ(中国)‘共産党王朝’は長期戦略としてアメリカと良い関係を築き上げ、日本を弱体化し、その後彼らにとって目の上のたんこぶである天皇を無くして日本を完全に手中に納めようと考えていることだろう。これは決して妄想ではない。シナ(中国)‘共産党王朝’は自ら存在し続け、シナ(中国)人13億の民を養うため必死に生きのびようとしているのである。日本の政治家・官僚は、この現実を冷徹に観る眼を持つ必要がある。引き続き呉 善花著『韓国併合への道 完全版』より括弧(“”)で引用する。

 “馬建忠は二四日と二五日、いまにも李朝との決戦へ動きだそうとしている花房公使と仁川で会見し、花房公使から李朝政府と再協議に応ずるという確約を引き出した。日本が清国の調停を受けたのは、それを蹴れば次には清国軍との衝突を覚悟しなくてはならなかったからである。

 翌二六日、漢城へ戻った馬建忠は丁汝昌・呉長慶と協議し、日朝の再協議を実現するには大院君を取り除くしかないとの結論に達した。彼らはその旨を、魚允中を通じて国王に伝えた。そして魚允中も国王も、それ以外にこの難局を切り抜ける方法はないと判断したのである。

清国軍はその日のうちに大院君を捕らえ、南陽湾に停泊中の清国軍艦に乗せて天津へ連行してしまう。同時に大院君一派を政権から除いて、拘留、流罪、死刑などに処す一方、清国軍が軍乱を起こした兵士たちの討伐を展開し、二九日頃に軍乱は完全に鎮圧された。

こうして、清国の宗主国としての権威がフルに発揮され、忠州に隠れ避難していた閔妃も王宮へ戻り、政権は再び閔氏一族の手に握られることになったのである。・・(中略)・・清国は、漢城に進駐していた清国軍を背景に、李朝への影響力をこれまで以上に強化する方針を固めていったのである。”(続く)