2012年12月10日月曜日


日韓関係の改善のために(112)「日露戦争への道/韓国併合への道(続き)」(20121210)

 日本がロシアと戦争を始める前の朝鮮の状況はどうであったか。明治29(1896)72日に朝鮮に「独立協会」が発足した。「独立協会」は福沢諭吉が先鞭をつけたハングルによる新聞「独立新聞」を発行し、ロシア公館内にいた国王・高宗を漢城(今のソウル)にある王宮の一つに帰還させた。そして明治30年(1897年)1012日に大韓帝国が成立し、高宗は大韓帝国皇帝となった。しかし、統治形態は旧態依然としたものであり、すべての権限は皇帝に集中していた。日本が三次の条約を経て合法的に韓国を併合することができたのもこの統治形態によるものであった。(関連:2012123日月曜日『日韓関係の改善のために(105)「日露戦争へ至る道(続き)」(20121203)』  
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html 及び 2012124日火曜日『日韓関係の改善のために(106)「日露戦争へ至る道(続き)」(20121204)

韓国は生き残るため日本の保護下に入らざるを得ない状況になって、明治38(1905)11月に日本に韓国の外交権を委ねる「日韓保護条約」が調印された。皇帝はその条約が無効であると世界に訴えるため、明治406月、オランダのハーグで行われた「万国平和会議」に三人の密使を送り込んだ。明治389月に日露戦争が終結して約2年後のことであるが、「万国平和会議」の議長はロシアが勤めていた。議長は韓国が外交権の無いからと、密使の訴えを拒否した。これが「ハーグ密使事件」というものである。皇帝を迎えた御前会議で、皇帝が国際会議に密使を送り込み日本の信義に背いたことに対して閣僚たちから厳しい非難の声が上がった。「日韓保護条約」に基づき韓国に赴任した初代統監伊藤博文も13回にも及ぶ大韓帝国皇帝高宗の不義に対して怒り、遂に皇帝に退位を迫った。こうして高宗は退位し、大韓帝国皇帝の座は高宗の第二子・純宗に譲位した。

明治40年(1907年)720日、純宗が皇帝の座に就いたその日、韓国各地に暴動が起きた。724日伊藤統監と韓国政府の間で第三次日韓協約が結ばれ、行政と司法の分離が行われた。それに続いて皇帝純宗の「詔書」により韓国軍隊が解散され、韓国は日本に併合された。日露戦争の間、「日韓合邦」を目指して日本軍に積極的に協力した「一進会」会員は断髪していたため狙われ、1年間に966人が虐殺された。(参考:岩間 弘 『決定版 大東亜解放戦争 上巻』)

「独立協会」が発行した「独立新聞」を読む人々は限られていた。江戸夷時代の新聞「かわら版」は識字率が高かった日本人の間で人気があったが、当時の韓国ではメディアが民衆に情報を伝えることはなかなか困難な状況であった。そういう時代は守旧派が跋扈する。守旧派が跋扈する社会は自由な社会ではない。権力者たちは自分たちの身を守り、利益をまもるため武力を用い、国民の自由を奪い、国民を苦しめる。(続く)