2012年12月1日土曜日


日韓関係の改善のために(103)「日露戦争へ至る道」(20121201)

 北朝鮮の海軍関係の船らしいが、難破してぼろぼろになった木造漁船が佐渡島の海岸に漂着した。その船の中には五人の白骨化した死体があった。その海岸は2004年~2005年に曾我ひとみさんが北朝鮮工作員によって拉致された場所であるという。その北朝鮮はまた弾道ミサイルの発射を準備している。彼国は国民の生活がどんなに窮乏していても、国家体制の維持のためには最大限の資金と労力を用いる。

日本はそのような国家・北朝鮮や、古来日本固有の領土であった竹島を戦後不法に占拠して実効支配し、有りもしなかった‘いわゆる従軍慰安婦’問題を持ち出して世界中にキャンペーンを行っている韓国や、もともと領土問題が存在していない尖閣諸島を「明の時代から自国の領土であって日本が掠め取ったのだ」と主張し、世界中にキャンペーンを行っているシナ(中国)や、終戦直後に日本の北方四島にアメリカ軍が居ないことを確認した上で島民(日本人)たちを追い払い、不法にそれらの島を占領したロシア(旧ソ連)に囲まれている国である。大東亜解放戦争に敗れた日本は敗戦後今日まで忍耐と辛抱を余儀なくされてきた。しかし、今、ようやく日本は戦前のような背骨も精神もしっかりとした国に再生される気運にある。国家観に乏しく、一般大衆に迎合した政治家たちと決別することができる機運にある。日本人は今ようやく「問題の存在」に気付いたのである。

そもそも「問題」は意識して気付こうとしない限り、表には出て来ない。表に出ていない「問題」を見つけ出す上で邪魔になるものは「知識」であり、「文化」であり、「感情」である。日本人は創造性の高い国民である。「問題」の存在に気付けばその「問題」を解決することは迅速に行うことができる国民である。年寄り、特に戦後生まれの年寄りには、大学で学び、社会で学び、ある意味で‘インテリ’のような「知識」を持っている。自分たちの父母たちが太平洋解放戦争で非常な苦労と犠牲を強いられたので「武」はできるだけ遠ざけたいという「感情」がある。そして、戦勝国アメリカの軍事力に頼って平和と繁栄を満喫してきたという「文化」がある。このためつい最近まで日本国民は「平和の眠り」をむさぼっていた。ところがシナ(中国)が我が領土を自分のものにしようとあからさまな行動に出て来た。日本国民はようやく「平和の眠り」から目覚めたのである。

さて、仁川港にはロシアの軍艦が碇泊していた。閔妃殺害後の朝鮮では「守旧派」がロシアの力を借りて政治の表舞台に躍り出た。穏健開化派だった金弘集らは日本の力を借りて朝鮮の改革に取り組んでいたが、逆賊とされ、金弘集らは群衆に殺害されるなどして結局は日本の主導による内政改革は実らなかった。そういう状況下、仁川港を舞台に日露戦争の前哨戦が起きた。ロシアは日清戦争後、「三国干渉」の一国として日本を貶めた国である。(関連:201179日土曜日『日露戦争前哨戦(続)(20110709)
2011712日火曜日『日露戦争前哨戦(続)(20110712)

引き続き閔妃事件の直後のことについて呉 善花 『韓国併合への道 完全版』より“”で引用する。

“第四次金弘集内閣は日本公使と日本人顧問官の指導の下、次々に改革の勅令や法律を公布していった。その主なものは次のとおりである。
   訓練隊を解散し、訓練隊と侍衛隊を合体して中央に二個大隊の親衛隊を設置する。
   平壌と全州に各一個大隊の鎮衛隊を設置する。
   陸軍の編成改革。
   国内通信網の拡充(主要都市への郵逓司の設置)
   小学校令の制定・公布。漢城市内の数ヵ所に国立小学校を設置する。
   太陽暦の採用と一世一元号の使用(新年号「建陽」)。
   断髪令の公布、頭巾着用の禁止、外国服着用の奨励。

 これらの施策は儒教を奉じる書院を中心に地域に根を張る両班や儒学者たちから猛烈な反発を受けた。「衛正斥邪」を掲げる彼ら伝統的な守旧派にとっては、「国母」を殺害して打ち立てられた親日政権が次々に近代化をはかっていくことは、そのまま外国勢力による伝統的な礼俗の破壊であり、とうてい許しがたいことであった。また地方両班や儒学者たちは、そうした開化・内政改革によって没落していくことが目に見えていたのである。

 一二月に公布された断髪令をきっかけに、翌一八九六年(明治二九)一月から農民層を巻き込んでの武装蜂起が各地に発生し、急速に全国へと拡大していった。彼らは「義をもって戦う」ことから義兵と呼ばれた。親日政権に対する明らかな武力闘争のはじまりであった。

 政府が義兵闘争鎮圧のために親衛隊の主力を地方へ派遣すると、王宮警護が手薄になったスキをついて、ロシアの手を借りた親露派クーデターが起きるのである。
ロシア公使ウェーバーは一月に解任され、スペールが新公使として着任していたが、ウェーバーはすぐに帰還せずに漢城にとどまっていた。まずスペールが漢城の不穏な情勢を理由に、仁川に停泊中のロシア軍艦から一二〇名の将兵をロシア公使館内に入れる。そうして親露派の李範普、李允用、李完用らがウェーバーとはかり、国王をロシア公使館へ移したのである。各国公使館の守備兵たちがロシア公使館を取り巻いて警護を固めた。そのため、日本はまったく手出しすることができなかった。
こうして親露派官僚たちは、ロシア公使館内で国王に国王親政を宣言させ、断髪令の中止、政権首脳五名を逆賊として彼らの逮捕殺令を布告させたのである。”(続く)