2012年12月25日火曜日


日韓関係の改善のために(126)「満洲国軍人だった朴正熙韓国大統領②」(20121225)

 満州国政府が日本の傀儡であると言われるが実態がどうであったのか。てっとり早くその知識を得るため Wikipediaから“”で引用する。その内容の正否については後日研究して確かめたいと思う。

“満州国軍(満洲国軍、まんしゅうこくぐん)は、満洲国の国軍。1932年(大同元年)創設。1945年(康徳12年)解体。
当初は「国内の治安維持」「国境周辺・河川の警備」を主任務としており、軍隊というよりは関東軍の後方支援部隊、或いは警察軍や国境警備隊としての性格が強かった。後年、関東軍の弱体化・対ソ開戦の可能性から実質的な国軍化が進められたが、その時を迎えることなく終戦を迎え、満洲国軍も解体された。”

“指揮系統 各軍(当初は6軍、後に11軍)の長は司令と称し、警備司令官(陸軍)・艦隊司令官(海軍)共に満洲国執政(皇帝即位後は満洲国皇帝)である溥儀の直接指揮下に置かれた(溥儀は天皇同様、軍を統帥する大元帥の地位にあった)。但し、それはあくまで制度上の話である。日系軍官の異動・昇格人事については、関東軍司令部の承認が必要であり、その他の事項についても、関東軍の指導によるところが多かった。”

“満洲国軍創設当時(19324月) 1932年(大同元年)415日公布の陸海軍条例(大同元年415日軍令第1号)により、満洲の国軍が創設された。当初は当時の軍閥の軍隊に関東軍からの顧問を据えただけの構成であり、その主要任務は「国内の治安並びに辺境及び江海の警備」(陸海軍条例第1条)であった。”
“また、1932年(昭和7/大同元年)915日締結の「日満議定書」には、満洲国の国防を満洲と日本の共同で担うべく、日本軍(ここでは関東軍)の駐屯を公式に認めている。これによって「関東軍」と「関東軍の支援軍としての満洲国軍」が公式に成立した事になる。このように満洲国はその防衛のほとんどを日本軍に担っており、傀儡国家とみなされる理由の一つとなっている。”

“日系軍官  満洲国軍には創設当初から日本人が顧問、教官として所属していた。軍事顧問以外の部隊長等にも日本軍から転籍してきた日系軍官が配されることがあった。”

“海軍兵力
起源は1932年(民国21年)2月に発足した江防艦隊。陸軍として編成された軍閥が所有していた5隻の軍艦(小型の砲艦・警備艇)を編成したものだった。当初は満洲駐在の日本海軍が支援していたが、その後海軍は江防艦隊から手を引き、海辺警察隊(後述)の支援に回ったため江上軍と名を改め、陸軍の一部隊となった。”
“当初は主に河川部の国境警備を担当していたため、河川が凍結する冬季には、海軍兵も上陸して陸戦隊として勤務していた。このため、実質的な海上兵力は海辺警察隊が担っており、独自の航空隊も存在した。主力艦船は「海威」級で、日本海軍の駆逐艦「樫」が引き渡されたものである。この海辺警察隊は領海警備・密輸取締りなど沿岸警備隊的な組織であるが、終始日本海軍が支援しており、士官・技術者・航空隊パイロットは海軍出身の日本人が多かった。このように、海辺警察隊は沿岸警備隊というよりは海軍としての性格が強かった。”

“日中戦争開始後(1937年以降)
日中戦争が全面戦争になった後、陸軍は関東軍将兵を続々と(支那派遣軍へ異動させ)中国の戦場(この場合は山海関以南の戦場)に投入した。このため、従来のように「関東軍を主軸とした国防」構想自体に無理が生じ、満洲国軍は「自力での国防」に方針を転換せざるを得なくなっていった。”

“軍官学校  1939年(康徳6年)に新京特別市に陸軍軍官学校が設立され、将校養成を担った。満系生徒のほか、日系生徒(ここでは内地人の他に朝鮮人、台湾人も含まれる)も入学し、日満両国民が共に机を並べて練磨した。第1期入学生徒中で日系生徒は172名にも上る。”

“朝鮮人の受験生に対しても優遇措置が取られていた。後に韓国大統領になった朴正熙は、国民学校訓導であった23歳当時に、資格年齢が16歳以上19歳以下である満洲国軍官学校の願書を提出し、2度資格不足で受験できなかったが、3度目には、志願書とともに「日本人として恥ぢざるだけの精神と氣魄とを以て一死御奉公の堅い決心でございます」などと記した血書を提出したため、特別に日系枠の採用試験の受験が許可され、合格・任官している。”

“地理的な近さから軍官学校生徒には朝鮮人が少なくなかった。彼らの多くは第二次世界大戦後に創設された韓国軍に入隊し、日本陸軍出身者と共に韓国軍の基幹となる。また大統領となった朴正煕や国会議長・国務総理などを歴任した丁一権など、政治家として活躍した人物もいる。”

“当時の満洲では医師の養成機関が満洲医科大学のみで、軍医の不足が著しかったため、満洲国軍医学校も設立されている。これは日本の陸軍軍医学校とは違い、中等教育修了者を入学させて医学教育を施し、4年後に軍医少尉に任官させるものであり、内地における医学専門学校に近似するものであった。この建学思想は第二次世界大戦後の防衛医科大学校にも引き継がれている。”

“解散 ソ連が対日参戦すると、満洲国軍も関東軍とともに満洲国の防衛に従事することになったが、満洲国軍の士気は低く、脱走や反乱が相次いだ。近衛兵である禁衛隊や、親日的と見られていた興安軍官学校生徒隊も、日系軍官を殺害して逃亡した。満洲国軍は事実上解体状態に陥っていった。”
1945年(康徳12年)818日に皇帝溥儀が退位を宣言し、満洲国が消滅したことで、満洲国軍も同月20日に正式に解散された。満洲国軍の要人の多くは、ソ連の捕虜となった後、中華人民共和国に引き渡され、戦犯収容所に収監されるなどして処罰された。構成員はソ連撤退後に国共内戦が発生した際に、国民党軍や人民解放軍に編入された。”

“国軍としての実態 多くの民族で構成され、拡充が進められた満洲国軍であったが、事実上関東軍の支配下にあった軍隊であったため、不満を持つ軍人も多く離反者は後を絶たなかった。19361月の金廠溝事件や、ノモンハン事件での石蘭支隊歩兵第14団第1営による反乱事件が起こっている。第二次世界大戦末期にソ連軍が侵攻してくるとソ連軍に離反する者が相次いだ。”(終)