2012年12月24日月曜日


日韓関係の改善のために(125)「満洲国軍人だった朴正熙韓国大統領①」(20121224)

 韓国大統領となる朴槿恵(パククンヘ)氏の実父・故朴正熙大統領が満州国(満洲国)(まんしゅうこく)軍官学校を出て、日本陸軍士官学校に編入学して其処を卒業し、満洲に戻って満洲国軍中尉として終戦を迎えたということについては、私も知らなかったが殆ど多くの日本人も、おそらく韓国人も知らないことであろうと思う。

 満州はシナが清朝であった時代には「帝室の故郷」として「省」は置かず「将軍」を置いて漢民族の植民を強く制限していた。しかし清朝の末期には急速に漢族化と開拓と混血が進んでいた。現在では満洲は「女真族」の土地ではなく、シナ(中国)の東北地方となってしまっている。シナ(中国)では内モンゴル自治区も新疆ウイグル自治区もチベット自治区も急速に漢族化と開拓と混血が進み、いずれはシナ(中国)全土が混血・同化した「新たな漢民族」の領土となることだろう。
シナ(中国)‘共産党王朝’は、その綱領において、奄美・沖縄・八重山(先島)諸島も「一国二制度」による支配を経て「更に新たな漢民族」の領土にしようと企んでいる。

 下記に“”で引用するWikipediaの記事のとおり、満洲に関してひととおりの情報を集めた。「知る」ということは「力」になる。何事においても事実を知らずに偏向思想的な情報に惑わされることは、対立者同士の相互理解の妨げになる。それは、潜在している問題の発見の妨げとなり、顕在している問題の解決の妨げとなる。

 「問題の発見」の妨げとなるもの、また「問題の解決」の妨げとなるものは、正に「知識」であり、「問題の解決」を進めるのもまた「知識」である。この「知識」以外に、「感情」と「文化」も「潜在している問題」の「発見」の妨げとなるものである。

“満州国(まんしゅうこく、旧字体:滿洲國、英語: Manchukuo、拼音: Mǎnzhōu Guó )は、1932年から1945年の間、満州(現在の中国東北部)に存在した国家。帝政移行後は「大満州帝国(大滿洲帝國)」或いは「満州帝国」などとも呼ばれていた。
大日本帝国および中華民国、ソビエト連邦、モンゴル人民共和国、蒙古聯合自治政府(後に蒙古自治邦政府と改称)と国境を接していた。”

“満州は 、歴史上おおむね女真族(後に満州族と改称)の支配区域であった。満洲国建国以前に女真族の建てた王朝として、金や後金(後の清)がある。清朝滅亡(1912年)後は中華民国の領土となったが、政情は安定せず、事実上軍閥の支配下に置かれた。1931年、柳条湖事件に端を発した満州事変が勃発、関東軍(大日本帝国陸軍)により満洲全土が占領された。関東軍の主導のもと同地域は中華民国からの独立を宣言し、19323月、満洲国の建国に至った。元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就いた。”
“満洲国は建国にあたって自らを満州民族と漢民族、蒙古民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」を掲げた。”

“満洲国は建国以降、日本、その中でも関東軍の強い影響下にあり「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた。当時の国際連盟加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。このことが、1933年(昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった。
しかしその後、ドイツやイタリア、タイ王国など多くの日本の同盟国や友好国、そしてスペインなどのその後の第二次世界大戦における枢軸寄り中立国も満州国を承認し、国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦も領土不可侵を約束して公館を設置するに至り、当時の独立国の3分の1以上と国交を結んで安定した状態に置かれた。またアメリカやイギリスなど国交を結んでいなかった国も大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易をおこなっていた。”

“第二次世界大戦末期の1945年(康徳12年)、日ソ中立条約を一方的に破棄した赤軍(ソビエト連邦軍)による満洲侵攻と、日本の太平洋戦争敗戦により、818日に満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡。満洲地域はソ連の支配下となり、次いで中国国民党率いる中華民国に返還された。その後の国共内戦を経て、現在は中国共産党率いる中華人民共和国の領土となっている。”
“中華民国及び中華人民共和国は、現代でも満洲国を歴史的な独立国として見なさない立場から、否定的文脈を用いて「偽満」「偽満州国」と表記する。また、同地域についても「満洲」という呼称を避け、「中国東北地区」と呼称している。日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として「旧満洲」という修飾と共に呼称する。”

“満洲は清朝時代には「帝室の故郷」として漢民族の植民を強く制限していたが、清末には中国内地の窮乏もあって直隷・山東から多くの移民が発生し、急速に漢化と開拓が進んでいた。”
“これに目をつけたのが清末の有力者・袁世凱であり、彼は満洲の自勢力化を目論むとともに、ロシア・日本の権益寡占状況を打開しようとした。しかしこの計画も清末民初の混乱のなかでうまくいかず、さらに袁の死後、満洲で生まれ育った馬賊上がりの将校・張作霖が台頭、張は袁が任命した奉天都督の段芝貴を追放し、在地の郷紳などの支持の下軍閥として独自の勢力を確立した。満洲を日本の生命線と考える関東軍を中心とする軍部らは、張作霖を支持して満洲に於ける日本の権益を確保しようとしたが、叛服常ない張の言動に苦しめられた。
さらに中国内地では蒋介石率いる中国国民党が戦力をまとめあげて南京から北上し、この影響力が満洲に及ぶことを恐れた。こうした状況の中、1920年代後半から対ソ戦の基地とすべく、関東軍参謀の石原莞爾らによって長城以東の全満洲を国民党の支配する中華民国から切り離し、日本の影響下に置くことを企図する主張が現れるようになった。”(続く)