2012年12月13日木曜日


日韓関係の改善のために(115)「韓国併合前、親日的組織「一進会」」(20121213)

日本による韓国併合は日露戦争終結後のことである。韓国における民族的な活動として日露戦争時、日本軍に積極的に協力した「一進会」という会員数約14万人の組織があった。この一進会は「日韓合邦」という理想を掲げていた。「日韓合邦」は日本を盟主として、天皇と韓国皇帝とが併存するというものであった。これは現在シナ(中国)で行われている「一国二制度」に対比して考えることができる。一進会会長李容九は日本人内田良平らとともに「日韓合邦」という理念をもって活動した。しかし日本による韓国併合後は日本によって他の団体とともに解散させられた。44歳で没した李容九は“併合後に「日本にだまされた」と述べたと伝えられる。また併合一〇年後には、旧一進会会員から同会の顧問だった日本側リーダーの杉山茂丸に対して「併合の結果は日韓国民の間に著しい差別をもたらすものであり、無差別平等の対等合併ではなかった」と、その責任を問う問責状が送付されている。” (“”内は、呉 善花 『韓国併合への道 完全版』より引用。)

日本による韓国併合後、民間の儒者や旧韓国軍下士官らが徒党を組んで自ら「義兵」と称していたグループは日本人警察官や旧一進会会員を襲撃した。特に一進会会員は断髪していたために狙われ易く、一年間に九百六十六人が虐殺されたと言われている。
(関連:①20121014日日曜日『日韓関係の改善のために(55)「一国二制度」(20121014)
20121015日月曜日『日韓関係の改善のために(56)「一国二制度(続)」(20121015)

「日韓合邦」は当時の韓国内外の状況のなか、民族の真の独立を願う人々のキーワードであったと思う。明治32年(1899年)に義和団事変が起きたときロシアが管轄した地域ではロシア兵による住民の虐殺、放火、強姦などの蛮行が横行した。当時、治安維持状態が最高に良かった日本管轄地区へ避難してくる住民が洪水のごとく多かった。義和団の乱が満洲に波及したときロシアは建設中の東支鉄道保護の名目でシベリア方面と旅順から大兵を満洲に送り込んだ。そして明治33年(1900年)7月に東亜の血史に残る「江東六十四屯虐殺事件」を起こした。ロシア兵は満洲侵入に先立って江東の64か所の村の1万人余りの住民のうち6千人のシナ(清国)人を虐殺し、その死体を黒竜江の濁流に捨てた。ロシアが終戦後南樺太を奪い、わが北方四島を奪ったときの行動も、ロシア民族の心性を現わすものである。(参考:岩間 弘 『決定版 大東亜解放戦争 上巻』)

ロシアに対して日本はシナ(当時、清国)と韓国の独立の保証を求めていた。ロシアは満洲の領有と朝鮮半島の北緯39度線以北の中立化を執拗に要求してきた。日本では御前会議において閣僚、元老とも開戦やむなしとの意見であったが、天皇は各発言を深くお聴きになり種々御下問の後「いま一度催促してみよ」と御指示になった。日本は最終案を作成し、113日ロシアに提示してその回答を求めた。しかし再三の催促に拘わらずロシアからの返答はなく、遂に日本はロシアと戦わざるを得なくなった。(関連:2011731日日曜日『日露戦争前哨戦(補記) (20110731)

一進会はシナ(当時、清国)との“宗属関係、事大主義を断ち切り朝鮮が真に独立国になる為には、日本に学び日本の力を借りたいとする親日的な急進改革派の金玉均のクーデターがあり、穏健改革派の金弘集政権があったのである。そしてその思想に共鳴する東学党があった。その東学党の党員として活躍していた李容九(イオング)や宋秉畯(ソウビョンジュン)らは明治三十七年(一九〇四年)一進会を組織して日露戦争では日本軍に献身的な協力をしたのである。・・(中略)・・一進会の五大綱領は、(一)韓国皇室の尊栄 (二)人民の生命財産の安固 (三)施政の改善 (四)財政・軍政の整理 (五)日本軍への積極的協力 であった。・・(中略)・・

 その頃朝鮮鉄道は釜山から京城までで、我が軍が満洲へ兵を送るのに必要な京城から新義州までの鉄道はまだ敷設されていなかった。韓国政府が非協力的であったため、我が軍は甚だ困窮したが、この時一進会が鉄道敷設に立ち上がったのである。また武器弾薬を北方へ輸送するため、一進会は北進隊を組織して日本軍に協力した。これらがいずれも多大の困難と犠牲を伴う事業であったことは言う迄もない。因みに、京義鉄道敷設工事に参加した一進会員は黄海道、平安道、平安北道を合わせて十五万人に上った。また北鮮から満洲へ軍需品を運搬するために動員された会員は十一万五千人であった。戦争の危険、事故や病気、多大の出費、加えて反日的朝鮮官民による迫害など様々の艱難辛苦を冒して日本軍に協力した一進会の捨て身の行動は、自国と東亜の復興をこの一戦に賭ける深い信念と友情があってこそ、はじめて可能だったのである。(大東国男「李容九の生涯」)(中村粲「大東亜戦争への道」)再引) ただしかし、一進会の唱えたのは日韓合邦であり、あくまでも日本による韓国併合では無かったことに多くの史家は注意を向けようとはしなかった。それは合邦などおよそ世界に例のないことであり、そもそも日本の保護国となった韓国が日本と対等の資格をもって合併することを、可能にする現実的な条件などある訳もなかった、という認識からのものだと思う。(呉善花「韓国併合への道」)”(“”内は、岩間 弘 『決定版 大東亜解放戦争 上巻』より引用。)