2012年12月3日月曜日


日韓関係の改善のために(105)「日露戦争へ至る道(続き)」(20121203)                 

独立協会は当時の韓国政府によって弾圧され、解散させられ、幹部の一人であった李承晩も拷問を受けて爪を剥がされた。日本を憎悪していた李承晩はそのことを日本の憲兵によって爪を抜かれたのだと言ったという。岩間 『改訂版 大東亜解放戦争 上巻』から“”で引用する。
“明治二十九年(一八九六年)一月、金弘集は除載弼(ジョサイヒツ)をアメリカから呼び寄せた。彼は金玉均のクーデター(甲申(こうしん)事変)に参画して失敗すると日本に亡命し、その後アメリカに約十年間在住していた。金弘集は彼に外務大臣の椅子を与えようとしたが、彼は高位高官は眼中になく、二月十一日国王がロシア公使館に逃げ込んだ露館播遷などしても独立国とは言えないのを見て、独立心を喚び起こさなければならないと啓蒙運動に身を投じた。その間に前述の通り金弘集らは政変で逮捕殺令が出され、群衆に殺された。

除載弼はその年の四月七日福沢諭吉が先鞭をつけたハングル文字による「独立新聞」を創刊した。現在韓国で四月七日のこの日を記念して「新聞の日」に制定されている。(名越二荒之助「日韓二〇〇〇年の真実」)

そして七月二日、彼らは独立協会を設立した。初代議長は政府官僚の李完用であった。独立協会は、政府が日本やロシアをはじめとする列強諸国へ利権を供与し、それと引き換えに軍事や経済の援助を受けるというそれまでのやり方を根本的に批判した。そして「独立新聞」を通して、また各地の討論会を通して、広く自立独立を国民に訴えていった。

独立協会はかつての清国の勅使を迎えた迎恩門を壊して独立門を建て、慕華館は看板をはずして独立館に代えることを提唱してそれを完成させた。

独立協会のこの様な運動により、民衆の中に国王と政府がロシア公館内に居続けることは、国家の体面を汚すものだとして、早急に王宮への帰還を求める声が日増しに高まっていった。

それは政府を除く殆ど国民一致の要請と言ってもよかった。その声に押されて明治三十年(一八九八年)二月二十日国王高宗はロシア公使館を出て、景福宮を避けて、欧米諸国の公使館が近くにある慶運宮(現在の徳寿宮)へ還御した。(呉善花「韓国併合への道」)

還御後、国王は国号を「大韓帝国」に改め、自らも称号を「国王」から「皇帝」に「王后」は「皇后」に「王世子」は「皇太子」に改めた。八月には、元号を「建陽」から「光武」に改め、十月十二日には皇帝即位式を盛大に挙行した。”(続く)