2012年12月4日火曜日


日韓関係の改善のために(106)「日露戦争へ至る道(続き)」(20121204)

昨日に引き続き岩間 『改訂版 大東亜解放戦争 上巻』より“”で引用する。著者は五百年続いた朝鮮王朝が余命幾ばくもない状態になったことについて「大韓帝国史は涙なくしては見ることができない」と言っている。日本では武士たちがその身分を捨てて、日本を東アジアでいち早く近代化に導いた。日本は元々デモクラシーが根付いていた国であった。「士農工商」はそれぞれの役割を最大限に発揮させる仕組みであって「士農工商」間の移動は、一定の秩序のもとに可能であった。ところが朝鮮はそうではなかったから、「涙なくしては見ることができない」状況になったのである。日本人はそのことを理解しておかなければならない。

“高宗は文武百官を従え祀殿に出御し、厳かに天地の神々に祈りを捧げて国号の変更を告げた。そして新しい韓国はこれまでの清国との伝統的な宗属関から離脱し、独立国家であることを宣明した。翌十三日には欧州列強の駐韓公使の殆どが宮廷に入り、皇帝に祝意を表した。欧米各国が「大韓帝国」を承認し、独立国家として新発足したのである。

 更に十一月二十二日には亡き閔妃の諡(おくりな)を「明成皇后」と決め遺体のないまま、国葬をもって弔い、高陽郡金谷里の御陵(洪陵と呼称)に納めた。こうして「大韓帝国」が自主独立国家として誕生した。輝かしい未来が開かれ、明治以降の日本の念願が達成されたかと思われた。ところが「新生大韓帝国」は結局、名称と形式が変わったにすぎなかった。実際には旧態依然としてロシアの干渉と列強の愚弄を受けながらあえぐ崩壊直前の王朝であり、新鮮な迫力も、溌剌たる意気も全然見られなかった。(李瑄根「民族の閃光」)(名越二荒之助「日韓二〇〇〇年の真実」再引)

 明治三十二年(一八九九年)八月十七日、高宗は「大韓帝国国制(憲法)」を発布した。この憲法は韓国が自主独立の国であることを強調し、軍の統帥権も、立法、行政、外交権もすべて皇帝に直属させたもので言わば絶対君主制の規定であり、あらゆる権限を皇帝に集中させているので、皇帝を納得させれば何でも実施できる制度である。しかし強いようで案外もろく、日本もこの制度に基づいて“合法的”に併合まで持っていったのであった。(名越二荒之助「日韓二〇〇〇年の真実」)

 独立協会が政府の不正を攻撃し、その活動が活発になると、韓国政府は自らの失策と無力を反省せず「皇国協会」というテロ団を作って独立協会を排除する陰謀を進めた。そのため除載弼(ジョサイヒツ)は一八九八年五月、妻子を連れてアメリカに帰ってしまった。除載弼(ジョサイヒツ)が去った後も尹致昊(インチコウ)会長とその同志に引き継がれて、活発な運動を続けた。彼らは「政府は国家の権益を外国に割譲するに余念がなく、贈収賄と売官、売職は日とともに盛んになる」として大集会をもって糾弾した。すると政府は独立協会を弾圧し解散命令を出し、幹部全員を逮捕した。当時の幹部の一人であった李承晩(リショウバン)も拷問を受け爪を抜かれた(日本を憎悪していた李は戦後大統領になった時、日本の憲兵によって爪を抜かれたと指を示したが、実はこの時のものであった)。一八八〇年以来火花を散らした民族の近代化の閃光も明治三十一年(一八九八年)を最後の峠として監獄、地下、または海外に消え去り、五百年王朝の国運はかすかにその命脈を維持し、余命いくばくもないかに見えた。「大韓帝国史」は涙なくしては見ることはできない。(名越二荒之助「日韓二〇〇〇年の真実」)”(続く)