日韓関係の改善のために(113)「日露戦争への道/韓国併合への道(続き)」(20121211)
日本はロシアと戦わざるを得なくなった。明治36年10月30日、日本はロシア案に対する11か条からなる確定修正案をロシアに提示している。その中に「第一条 清韓両帝国ノ独立及領土保全を尊重スルコトヲ相互ニ約スルコト」、「第六条
韓国ト満洲ノ境界ニ於テ其ノ両側約五十キロメートルニ亘リ一ノ中立地帯ヲ設定シ右地帯内ニハ締約国孰レモ相互ノ承認ナクシテ軍隊ヲ引キ入サルコトヲ相互ニ約スルコト及び「第十条
今後韓国鉄道及清国鉄道ニシテ鴨緑江マデ延長セラルルニ至ラハ該両鉄道ノ連結ヲ阻礙セサルヘキコトヲ相互ニ約スルコト」という条項がある。ロシアは1903年(明治36年)12月11日に「韓国領土ニシテ北緯三十九度以北ニアル部分ハ中立地帯ト見做シ云々」と対案を示してきた。日本はこれに対して年明けた1904年1月13日の日本の最終提案で「全文削除」を要求した。ロシアは「韓国領土の三十九度以北」ということついてこだわりつづけた。ロシアは満洲のみならず、北朝鮮の大部分をも領有しようとしていたのである。
(関連:①2011年7月27日水曜日『日露戦争前哨戦(補記)
(20110727)』
②2011年7月28日木曜日『日露戦争前哨戦(補記)
(20110728)』
③2011年7月29日金曜日『日露戦争前哨戦(補記)
(20110729)』
④2011年7月30日土曜日『日露戦争前哨戦(補記)
(20110730)』
⑤2011年7月31日日曜日『日露戦争前哨戦(補記)
(20110731)
⑥2011年8月1日月曜日『日露戦争前哨戦(補記)
(20110801)』
こういう状況下、韓国国内では独立協会が韓国政府に対する批判を一艘強めていった。韓国政府は守旧派による「皇国協会」というテロ集団のような組織をつくらせて独立協会を弾圧した。独立協会の熱心な活動家であった韓国初代大統領李承晩はこの弾圧で自分の爪を剥がされた。(関連:2012年12月4日火曜日『日韓関係の改善のために(106)「日露戦争へ至る道(続き)」(20121204)』
日本がロシアとの戦争に勝利し、韓国を保護下に置いた後、韓国内では総計14万人余りに義兵による反日運動が活発化した。韓国駐留日本軍は2千数百名程度、最大で数千名程度であったが、義兵たちが何千名かの規模で日本軍と衝突したケースはなかった。その理由は組織力に欠けていたためである。(参考:呉
善花 『韓国併合への道 完全版』、以下あ“”内は引用。)“李朝―韓国が、家族(血縁)を超えて地域的な連帯へ、地域を超えて国家的な連帯へという大きな流れを、併合時に至るまで生み出すことができなかったことだけはたしかであった。” (続く)