2012年12月14日金曜日


日韓関係の改善のために(116)「韓国併合後、反日勢力の拡大」(20121214)

韓国併合後は、1907年から1910年までその数延141603名の「義兵」による、反日闘争が展開されていた。しかしこの闘争は地域を超えた国家的連帯にまでは至らなかった。義兵による武力闘争が活発化し、全国各地で徹底した抗日ゲリラ戦が繰り広げられるようになったのは、明治40724日伊藤博文韓国初代統監と韓国政府との間で結ばれた第三次日韓協約に基づき、同年8月に純宗皇帝から韓国軍隊の解散命令が出されて以降である。
“当時の韓国軍は軍隊内に両班(ヤンバン)(貴族)制がそのまま生きていて、命令が伝わらず、とても規律ある軍隊ではない状態であったので傭兵(ようへい)精度を廃して、徴兵制度を実施する為に一旦解散を決めたのであった。その当時の韓国軍は一万人であった。その解散させられた軍隊が合流し、義兵運動は武器と組織を得て各地で激しい抗日闘争を展開した。

資料によれば義兵闘争には韓国軍の実態を知っている旧将校は殆ど加わらず、戦闘行動を知らない民間の儒者や下士官が中心であった。彼らは自ら「義兵」と称して日本人警察官や一進会会員を狙い、特に一進会会員は断髪していたために狙われ易く、一年間に九百六十六人が虐殺されたと言われている。” (“”内は、岩間 弘 『決定版 大東亜解放戦争 上巻』より引用。)
(関連:20121210日月曜日『日韓関係の改善のために(112)「日露戦争への道/韓国併合への道(続き)」(20121210)

この闘争の討伐に当たった駐留日本軍は2千数百名、本国から増派された兵士たちを加えても数千名であった。義兵側は死者17688名、負傷者3800名、捕虜1933名を出して鎮圧された。これに対して日本側の損害はわずかに死者133名、負傷者269名であった。(朝鮮駐箚軍司令部編『朝鮮暴徒討伐誌』を引用している呉 善花 『韓国併合への道 完全版』参考。以下、“”内は同書引用。)

義兵による武装闘争とは別に“都市知識人たちを中心に展開された愛国啓蒙運動”があった。“愛国啓蒙運動は独立協会運動を継承した国権回復運動で、その中心となったのは一九〇六年(明治三九)四月に創設された大韓自強会である。大韓自強会は、内に対しては愛国心を養い、外に対しては文明の学術を吸収し、教育振興と産業振興によって国力の自立増強を目指す運動を展開した。
大韓自強会は当初、日本との同盟をもっての独立自強・近代化を目指したが、しだいに日本の保護政治に対する批判活動を活発化させていき、一九〇七年七月以降は主として反日運動を展開するようになっていった。・・(中略)・・

それに対して、非合法の秘密結社として国権回復、民族独立への活動を行ったのが一九〇七年(明治四〇)九月に平壌を中心に組織された新民会である。会長は尹致昊、副会長はアメリカに留学して李承晩らとともに韓国独立の啓蒙運動を行っていた安昌浩(アンチャンホ)である。新民会は国権回復という非合法目的を、合法の外郭団体と連絡しながら展開したが、韓国が日本に併合されると、安昌浩らのように海外へ亡命する者と尹致昊ら国内に残留する者とに分かれた。
その後、新民会の国内残留組は「寺内正毅総督暗殺計画」の容疑で一九一一年(明治四四)九月から翌年の三月にかけて大量逮捕され、尹致昊以下一〇五名が有罪判決を受けるに至って完全に壊滅した。”

愛国啓蒙運動は「独立協会」運動を継承したのであった。当初の独立協会の主張は守旧派知識人たちのものであった。その独立協会の“民間会員たちは政府批判を中心に活動しようとするが、李完用ら政府官僚の会員たちはそれに強く反対してことごとく脱会してしまった。李完用が辞めた後の会長には尹致昊が就任し、会の主導は、李商在(イサンジェ)、南宮檍(ナムグノク)、李承晩(イスンマン)らが掌握するようになった。・・(中略)・・独立協会の政府批判はより一層激しさを増していった。それに対して、政府は独立協会の実質的リーダーである徐載弼を策謀をもってアメリカへ追いやると、守旧派たちを集めて「皇国協会」をつくらせ、独立協会に対抗させた。その一方で政府は、独立協会に妥協するとみせかけて会員たちを混乱させ、結局は会の解散と主導者たちの逮捕命令を発したのである。そのためある者は投獄され、ある者は逃亡・亡命を余儀なくされ、年末に至って独立協会は完全に壊滅してしまった。”

独立協会は明治29年(1896年)7月に設立された。独立協会の初代議長は政府官僚である李完用であった。そしてその独立協会は結局政府によって壊滅させられた。それは明治31年(1898年)末のことであった。李承晩は日本の憲兵によって爪を抜かれたと語ったと言ったが、実はその頃「皇国協会」によって行われたものであった。韓国内における反日運動は、日本が韓国を併合した明治40年(1907年)7月以降に起きている。

韓国では総理大臣になった李完用らに“「売国奴」の烙印を押したまま、いまなお赦そうとはしない”。そして反日感情が強かった初代韓国大統領李承晩が勝手に引いた李承晩ラインの内側にある日本の古来の領土・竹島を「韓国の領土である」と世界に向けて主張している。韓国人は歴史を正しく教えられていないし、日本人も日本が関わった韓国の近代の歴史について正しい知識を持っていない。これでは日韓の溝は埋められることが出来ないだろう。少なくとも日本人だけは韓国に関する正しい歴史認識を持っておくことが必要である。(関連:2012124日火曜日『日韓関係の改善のために(106)「日露戦争へ至る道(続き)」(20121204)』 http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2012/12/blog-post_4.html 
及び 2012123日月曜日『日韓関係の改善のために(105)「日露戦争へ至る道(続き)」(20121203)』 http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html )