2013年1月24日木曜日


「器具」と「道具」を上手に使って自分の最期まで「快く」生きる方法(20130124)

 男は自分の亡父と同年のあるお方からもう何年も前に、女房と一緒に「戒名」を授けて頂いている。その戒名が余りにも立派なので男はその戒名に恥じない日々を送らなければならないと常々思っている。一方女房が頂いている戒名は全く女房の心と姿と行いのとおりで、女房は男から見てまるで観音様のようである。それに対して男の心には純白な紙の上に薄墨を散らしたような汚点があるようなものである。であるからと言って男は現世に生きてゆく上で生臭さから抜け出してまでして聖者のようになりたいとはちっとも思っていない。勿論男の女房とてその心は純白のようであるが現世を生きる上で己を全く捨て去ってまでして他者に奉仕するというような、まるで聖女のようでは決してない。男の女房はごく常識的であり、心と行いが正しく賢くおおらかで、他者に対する心温かい思いやりと気働きがある。それ以上のものではない。男はそういう女房と一緒であるから自分自身は純白の紙の上を薄墨で汚したようであっても幸せなのである、と男は常々思っている。

男と女房に戒名を授けて下さったお方は随分前にあるお寺で修行され、得度して僧侶になられたお方である。そのお方は先日103歳の誕生日を迎えられた。男はそのお方に所縁があり男と男の女房よりも何年か前に戒名を授かっている友人二人と一緒に、そのお方に会いに行った。そのお方は大変お元気であるが脚力も衰え聴力も低下している。そのお方との会話で肝心なところは筆談で行った。そのお方は良い補聴器は持ってはいるがそれを使うのが面倒だから使っていないとのことであった。視力の方はそう衰えてはいず、眼鏡を必要としない。男は亡父と同じ年齢のそのお方の年まで生存しているかどうか、ふとそう思った。ただもし生存しているとするならば早い時期から補聴器の取り扱い慣れておこうと思った。また足腰の衰えに対してはそのうちに歩行補助trousersのようなものが出来るであろうと思うからそれを装着しようと思った。「器具」は人間の「機能」の衰えを補助する物であり、「道具」は人間の「能力」を拡張する物である。人間は「器具」と「道具」を使いこなすことによって、最期まで自立して生きてゆくことができるのだと思う。

男とその友人二人はそのお方のお宅を出て、ある私鉄の駅ビルの喫茶店で暫く歓談した。話題になったのは「行動」の原理である。「快か不快の刺激」と「環境」は「行動」を惹き起こす。年老いて最期まで生き生き生きるため重要なことは「快」の刺激と良い「環境」を得ることである。例えば閉じこもりの高齢者を誘い出すため、その高齢者にとって何が「快」なのか何がよい「環境」なのか良く考えてみる必要がある。最も良い「快」をもたらすものは若い異性の声や姿ではないだろうか。勿論美味しい食べ物も「快」をもたらすに違いない。しかしとりわけ要なものは「性」であろう。「行動」は「‘快’の刺激」と「‘良い’環境」によって惹き起こされるものである。この原理を上手く使えば高齢者も生き生きと日々を送ることが出来るに違いない。男と友人の三人はそのような議論を楽しんだ。