2013年1月16日水曜日


「成人の日」孫娘と酒を酌み交わす (20130116)

 男は何時になく非常に上機嫌である。風呂に一緒に入り体を洗ってやったことがあったあの小さかった孫娘が、今自分の脇に座っていて今年76になる男に酌をしてくれている。酒はその孫娘の父親、つまり男の息子が注文した「八海山」の大吟醸の冷酒である。ここはJR新宿駅西口に在る、ある高層ビル14階に在る名の知れわたっている、ある料亭である。

料亭と言えば一般的には平地に建っている日本式家屋でそれなりの門構えの建物を想像するが、ここは都会の密集地にあって、それなりの客が気楽に入ることができる店である。其処が高級かややランクが下の居酒屋同様かは、料理の内容と料金の差で別れる。男も女房も誰か大事な人を招待するとか何か特別なことでもない限り、そういうところには入ることはない。「成人の日」の今日は過去になかったような大雪である。息子の長女が二十歳になったお祝いのため、息子が男と女房及び息子の嫁の実家の家族を招待してくれたから、其処で高級感のある食事を楽しむことができたのである。事実、料理の内容は非常に良かった。息子は自分の仕事柄、そういうとこころにはよく招待されたり、自分が客を招待したりしているようである。男もかつて現役の頃、似たような経験がある。

 二十歳になったばかりの孫娘は自宅で父親である男の息子から、目上の人と乾杯するときの作法や目上にお酌をするときの作法について教わっていた。隣に座っていた孫娘は乾杯の時も男にお酌をするときも父親から教えられたとおりにした。座中最もお酒が強いのは孫娘であるかもしれない。孫娘は自ら大吟醸の冷酒を飲みたいと言い、実際に男の酌で孫娘は飲んだ。しかし孫娘の顔は赤くなることなかった。男の弟や妹、そして息子の一人は酒を飲んでも顔には出ない。一方、男も今日一緒に食事をした息子も初めは顔が赤くなる。男の亡父もそうであった。皆、飲めばかなり飲めると思うが適当なところで打ち切る習慣がある。男も男の弟妹も息子たちもお酒で酩酊するようなことは決してない。男の血筋の中には顔に出る者と出ない者の二通りがあるようである。しかし誰ひとりとして泥酔し、酩酊するようなことは決してない。遺伝子や我が「家」の遺風がそうなっているのである。酒にだらしない者が出る家系には、そのような遺伝子が伝わっていると思う。

 今日、男は嬉しさのあまり普段より多く飲んだ。ビールをコップ二杯と「八海山」大吟醸を1合ほど飲んだ。やがてその昼食会が終わって外に出た時は、男は多少視界がぼやけて見えた。しかし顔には出ていなかった。すでに赤くなることを通り越していた状態であった。多少視界がぼやけた状態はすぐ収まった。しかし多少なりとも視界がぼやけたようになることは健康管理上決して良いことではない。

盛唐のころの詩人・崔敏童の『城東の荘に宴す』という詩がある。その詩は玄宗皇帝に仕えた高級官僚であった実弟の別荘で作った詩であるそうである。その一節は「一年初めて一年の春あり。百歳かつて百歳の人無し。よく花前に向かって幾回か飲まん」というものである。男が昨日、孫娘と酒を酌み交わしたことは初めてであるが、今後そう何度もあることではないのだ。また、そうあってはならないのである。

振り袖姿の孫娘は一層美しかった。背丈もあり、写真に写った孫娘の顔は輝いており、その目の力は強い。きりっとしている。男の血統の形質が現れている。男はこの孫娘に、先祖の血がつながっている適齢の青年と是非面会する機会を作りたいと思っている。

男はある青年に、男の亡父の実弟である叔父の葬儀のとき一度会っただけである。その青年は弁護士を目指して勉強していると聞いている。その青年はその葬儀のとき初対面の男に、四、五人先の席から頬笑みを送ってきていた。男はそのことが妙に気になっている。それは、男の「家」のことを気に懸けていた叔父が、自分の葬儀のとき、先祖の願いを男に伝えるようにしていたのではないかと思う。縁がなければ、それは決して実を結ぶことはないだろう。男は「人事を尽くして天命を待つ」ことにした。縁が実を結ぶかどうかは、「人事を尽くすこと」と「天命」の二つが決定するだろう。「人事を尽くすこと」に於いては仏教が教える「八正道」に照らして行わなければならない。微塵も「私心」があってはならない。男はそう思って行動しようと思っている。