2013年1月12日土曜日


人は所詮動かされ、生かされているのだ。(20130112)

 人は運命鑑定・風水・運命を変えることなど、自分の運を調べて見たり、運を良くする方法を考えたり、積極的に自分の運命を変えられるのだと信じたりするものである。しかし、人の運命は生まれつきのものなのだろうか、努力すれば自分の運命は変えられるものなのだろうか?

 私は、人の生き方は人事を尽くして天命を待つことしかないのだと思っている。確かに生まれつき運の良い人がいるようである。また、短い生涯、薄幸な人もいるようである。幸せなのか不幸せなのかは、その人の感じ方次第で、周りの人がとやかく言うことは意味のないことであると思うが、傍から見ていて現実に不幸せに思える人もいる。豊かな日本から見れば、低開発国の子供たちの中には本当に気の毒な人もいる。しかし当の子供たち自身はくったくない様子に見えることもあし、実際に栄養失調で衰弱している子供たちもいる。昔の日本でもヨーロッパでも貧しい人たちは悲惨であった。『レミゼラブル』や『マッチ売りの少女』など、涙なしにはいられない話である。旧約聖書の「ヨブ記」には、ヨブが生まれながらにして何故このような苦しみを受けるのか嘆き、恨む話が出ている。実際の話で、生まれながらにして手足が無い五体不満足な人が居るが、その人は健常者以上に幸福な人生を送っている。

 自分は目には見えない何かによって動かされ、生かされているのだと実感するとき、心の平安がある。そう感じるのは自分が本当に幸せに感じているからである。もしかすると、明日には最愛の人が突然死んでしまうことがあるかもしれない。もしかすると明日、自分自身が突然起きた大災害で命を失うかも知れない。この世は常では無い。そう思うと自分は今何を反省し、何を為すべきか考えることになる。

 しかし、あまり深刻に考える必要はない。自分は現に何か目には見えない存在によって生かされ、動かされているのだと確信するとき、余計なエネルギーを使って「こうしよう。否、こうするべきである」など自分自身に捉われて考えたり行動したりすることが馬鹿馬鹿しくなる。自由自在・融通無碍の心境で自分の運命を天に委ね、しかし、今、このひと時を真面目に、誠実に、一生懸命過ごすことこそが最も大事である。時に本能に動かされて快楽を求めるのもよし。ただ、それは他者との間で新たな緊張関係を生じるようであれば、それは決して真面目に、誠実に、一生懸命過ごしたことにはならない。

 そういう意味で誰にも犯されず、誰をも犯さない、唯我独尊の世界を持つことが出来ている人は幸せである。しかし、よくよく考えてみると、その幸せは自分一人で持つことができているものではない。必ず其処に自分の分身のような異性がいる筈である。良寛さんは新潟県の国上山にあった五合庵で一人暮らしをし、その間、鹿たちや子供たちと遊び、69歳のときに五合庵を離れて、島崎村(現長岡市)の木村元右衛門邸内に移住した。70歳のとき年が41歳もかけ離れていた29歳の貞心尼と出会い、和歌を詠みあい、晩年まで心温まる交流が続いた。そして天保2年(1831年)、木村家で貞信尼に看取られつつ息を引き取った。享年74歳であった。死に至るまでの貞信尼との贈答の恋歌は『蓮の露』と題して貞信尼が書き遺している。

 人は独りでは生きられない。ロビンソンクルーソーも愛犬が友達だった。一人の人間を「一」として、その人間がもう一人の人間と時間や場所を共にして暮らすとき、算数の上では「1+1=2」である。しかしそこに良寛さんと貞心尼のような関係があると、「1+1=2+α」となる。「α」分、何かが増える。その逆もある。悪友や悪妻と一緒なら「1+1=2-β」である。「β」分、何かが減る。この場合、一緒で無い方が良い。人事を尽くして天命を待つのであれば、その「人事」は、この場合、悪友や悪妻から離れることである。逆に「α」分、増えるためには、人事を尽くさなければならない。さもないと良い天命はない。たとえその天命が「死」であったとしても、それは心安らかな、平安なことである。要は、「無私」であること、生存中のみならず死後においても何か良いものを他者に与えることができるような人事を尽くすことである。自分が聖人君子でもない生身の人間であることを肯定しつつ、「無私」で他者に何か「布施」することである。他者に何か「供養」することである。それは「私心」があっては決してできない行為である。

 かといって、平々凡々の生身の人間としてあるがままにあることに逆らうことではない行為である。これは、自分が宇宙と言う「生命体」を意識し、その中で宇宙の時間軸に沿ってあるがままに生きながら、自分の往生に向かって過ごす中に、自分なりに会得・体得すべきものである。

 物事がいつも幸運に運ぶことがあるとき、それを「偶然」のこととするか、「必然」のこととするか。もし「必然」のことだと感得することができれば、その人は幸せである。それが途方もない苦しみであったり、例えば誰かに殺されるようなことであったとしても、それは従容として受け入れられることである。そういう死生観を持つに至った人は後世に名を残す。若い時からそのような心がけが出来ている人は、きっと良い人生を送ることができるに違いない。人は所詮何か目に見えないことによって動かされ、生かされているのである。人事を尽くして天命を待つ心掛けこそ最も重要な生き方である。