2013年1月6日日曜日


教ざるの罪・学ばざるの罪 (20130106)

 年長者には「教ざるの罪」がある。一方若年者には「学ばざるの罪」がある。大東亜解放戦争後教育勅語が廃止され、年長者が年少者に対してものを言うことを遠慮するようになって、この二つの罪が大きくなった。ところが人々はそのことに気付かない。これが当たり前だと思っている。其処に問題がある。その問題を発見できないのには理由がある。

現に潜在している問題を見つけ出すことを妨げているものがある。それは「知識」と「感情」と「文化」である。この三つの障害のうち、「教ざるの罪」と「学ばざるの罪」の原因となっている問題を見つけ出すうえで障害になっているのは、「感情」と「文化」である。年長者は若年者に対して「このようあるべきである」或いは「このよう為すべきである」ということを明確に言うことをためらう。今時の若年者は年長者に敬意を払わず、年長者からとやかく言われたくないと思っている。年長者・若年者の双方にそのような「感情」がある。そして若年者と年長者の間には「文化」の差が大きい。特に映像文化やインターネット文化については、年長者と若年者との間で大きな差がある。これは年長者と若年者が同じ屋根の下で一緒に暮らしていない場合、特に顕著である。

 ではどういう問題があるのか。具体的な例を考えて見る。ここに都会地に住む一組の家族があると仮定する。その家族は夫婦子供4人暮らしであるとする。その夫の両親は田舎暮らしであるとする。その夫婦は夫がサラリーマン、妻が専業主婦であるとする。子供は小さく、小学生と幼稚園児の兄弟だとする。夫は毎朝早く家を出て夜遅く帰宅し、土曜日も会社に居ることが多い過酷な労働をしているとする。夫が子供たちに接する機会は少ない。それでも夫は休みの日には精一杯子供たちと遊んでやっている。子供を立派に育て上げることは自分の責任であると常々思っている。一方、妻も普段夫が家に居ないので子育てや家事や近所づきあいや学校・幼稚園での親の集まりに出ることなど雑多な用務で忙しい。夫が会社から帰宅したとき妻は既に寝室にいて休んでいることが多い。夫は自宅で夕食をとることが少ない。

 ある土曜日、夫は仕事で会社に行き、その日は夕食時間までには帰宅することができなかったが、8時過ぎには帰宅した。ところが家には食べ物がない。夫は仕方なく近くのコンビニに出かけ、自分が夕食にするものを買って帰った。そのとき田舎の母親から電話が入った。「お餅を搗いたから送ってあげる」という電話であった。その母親は自分の息子が会社から帰ってきたが食べ物がなかったのでコンビニに食べ物を買いに行ったことを聞き、その息子から「餅があればこういうとき助かる」という言葉を聞いて悲しくなった。その母親は夫唱婦随の文化の中で育ってきたから、夫が会社から帰って来たとき食べ物も用意されていない状態を普通の状態だとはとても思えない。ところが息子もその妻もそのような状態をすこしも変だとは感じていない。

 この例にある夫も妻も「潜在している問題」に気付いていないのである。その夫婦の子供たちは親を見習って成長する。親がやっていることが正しい、と信じ込んでいる。その子供たちがやがて成長し、大人になり、家庭を持ったときどのような問題が起きるだろうか?田舎に住む息子の母親にはその問題が見えているから憂鬱になる。息子夫婦は一人のまともな考え方をする老婦人に悲しい思いをさせたことに気付いていない。それどころか、母親というものは自分の息子が何歳になっても自分の乳を与え、慈しみ、育て上げた大事な息子である。その息子、一家の大黒柱となって家族のため骨を粉にして働いている息子が会社から遅く帰ってきて食べ物がないから自分でコンビニに買いに行ったことを聞いて息子の嫁に対して憤りさえ感じた。

若年世代の感覚では大して問題ではないと思っていることが年長世代の感覚では大きな問題である。其処に「教ざるの罪」と「学ばざるの罪」がある。これは社会的な問題である。家庭教育・社会教育の問題である。安倍政権でこのような問題を取り上げて、改善を図ることが日本国の将来のため必要である。この今年76歳になる私も、今迄ときどきそうであったがこれからは心を鬼にして、「教ざるの罪」を犯すことが無いようにしようと思う。