2013年1月30日水曜日


日本人は等質であると言われるが・・・(20130130

 よく「日本人は等質である」と言われる。それはそうかもしれない。万世一系の天皇がいるような国は世界中に存在しない。その天皇は古代では自ら日本のリーダーとして政治を行い、強大なシナ(隋)に対しては、例えば隋王朝の皇帝・煬帝に対して「日出(ひいず)(ところ)天子、書日没(ひぼっ)スル(ところ)天子(いた)。恙無(つつがな)キヤと親書を届けたように対等の立場を貫いていた。そのシナ(唐)は当時先進国であったから、日本は遣唐使を送って唐からいろいろ学んだ。しかし学ぶにあたっては取捨選択し、日本の文化にふさわしくないものは決して取り入れなかった。但し非常に能吏ではあったが私心があった朝臣姓の藤原(後に氏を‘藤原恵美’と改めた)仲麻呂(後に名を‘押勝’と改めた)によって、官制も官服も唐の様式に改められた時期があった。似たようなことは現代でもシナ(中国)に好意的な売国的政治家たちによって真似されかねない。

 等質と言われながら日本人は非常に多様性に富んでいる。これは日本人の遺伝子が分厚い縄文人の遺伝子の上に長江中流域からやってきた渡来系弥生人の遺伝子が重なり、更に大陸の国内動乱等のため五月雨的に日本にやって来た大陸・朝鮮半島からの帰化人たちの血も混じっているためであろう。万世一系の天皇を中心とし日本固有の文化と多様な遺伝子が等質でありながら多様性に富む日本人の特質を形成しているのである。多様性は創造性と実用主義を育む。この点に関して日本人とアメリカ人とは似たようなところがある。

 そのことはさておいて、日本人の等質性は戦後の教育制度や社会制度によって失われてきているようである。例えば結婚ということについて考えると、昔は結婚とは家と家との結びつきであった。今でも結婚式場には「〇○家・△△家ご両家」などと表示される。しかしそれは上辺だけのことである。嫁になる実父が婿の実父に対して臆面もなく「私は娘を〇○家に嫁がせたとは思っていない。結婚は本人同士のことであって家と家のことではないと」言う。それは多少昔の家族制度の経験がある者にとっては一瞬「えっ!」と思うことである。その一方でその父親は「娘を良く躾けていないので」と恐縮している。

 安倍首相は教育の現状を日本の危機の一つと捉えている。戦後教育で間違っていることは礼節とか忠孝の精神を疎かにしてきたことである。例えば戦後間もない頃までは、田舎では盆・正月は祭りのとき、娘たちは嫁ぎ先から実家に来て先ずは仏壇で手を合わせた後居間で正座して待っている親たちの前に進み出て、正座してきちんと両手を‘ハ’の字に揃え、丁寧な言葉づかいで挨拶をしていたものである。それが節度ある礼の作法であった。今、そういう礼儀作法は茶道や武道などで教え込まれるが親子の間が友達同士か兄弟姉妹のような感じになっている家の中では、そういう礼儀作法は照れくさくて行われていない。教育の再生はそういう基本的なことから、先ずは形から入ってゆくべきである。