2013年1月17日木曜日

因果応報は必ずある(20130117)

 仏教で教える「因果応報」という言葉には、実は非常に深い意味、人智を超えた意味があるように確信している。それは自らの実体験に基づく確信である。日々、物事が不思議に運んでいると感じることが非常に多い。勿論、「不思議」と感じるかどうかはその人次第である。「不思議」と感じない人にはこの話をしても意味がない。何故ならそれは「不思議」が判る人にしかわからないことなのであるからである。

 この「不思議」なことは一人の時はあまり起きないように思う。一人の人間ともう一人の人間がお互い尊敬しあい、愛し合い、協力し合うことによって、その「不思議」なことは良く起きるものだと思う。「1+1=2」ではなく「1+1=2+α」なのである。この「+α」はそれを認識できる者にしか認識できない。逆に「1+1=2-β」になる場合がある。二人一緒であっても二人分にはならないから「-β」となるのである。

 我が家の洗面所のリフォームをして工事が完了し残金の請求書が来たので、ゆうちょ銀行のATMで支払った。それが終わり後ろを振り向くと一人の女性がそのATMが空くのを待っている。「お待たせしました」と挨拶したがその女性は笑顔ひとつ見せることもなく無言でそのATMの方に向かった。その女性は年の頃30歳ぐらいである。76歳の男が丁寧に挨拶したのにその女性は無表情で無愛想であった。

 その女性のそのような振る舞いは後に何かのことで必ず報いを受けることだろう。その女性の親は自分の娘がそのような人柄にならぬように育て上げていなかったと思う。その親も当然相応の報いを受けることになるだろう。その女性が学校で教育を受けるとき先生は挨拶・会釈の大切さについて教えていなかったに違いない。その教師も当然報いを受けることになるだろう。この様に因果応報が現れる。それを因果応報であると感じず、考えもつかない者は日々の暮らしの中で必ず報いを受けるに違いない。そして自分の不運や不幸を嘆き、それを他者のせいにすることだろう。その人からはますます幸せが遠のく。

 安倍政権となって教育の再生が進行中である。手始めに高等学校でキャリア教育を行うことになった。高等学校を卒業して社会に出た場合、一人の社会人として立派に生きて行けるようにと考えられたシステムである。このキャリア教育の中において挨拶や会釈の大切さを良く教え込んで欲しいものである。

 一組の夫婦が子供を授かり、その子供を養育し、社会に送り出すまで間に、「1+1=2+α」になるか、「1+1=2-β」になるかによって、その子供が挨拶や会釈ができる社会性豊かな人格を持つようになるか否かが決まる筈である。それは因果応報である。