2010年6月2日水曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(74) (20100602)


  先月郷里の中学校の昭和28年卒業組の同級会があったとき、大腸がんで入院中の96歳の叔母を見舞ったが、その叔母が死んだ。葬式に帰れば長年会っていない従姉妹・従兄弟に会うことができるが近日中に帰郷すべくスーパー旅割の安い航空券も購入済みである。それに女房が体調を崩して喉が痛くなり少し発熱もしている。さらに今日は先週作った陶芸の皿3枚の形を整える削りという作業もしなければならない。それは今日やっておかないと乾燥しすぎて折角つくったものが駄目になってしまう。

  あれやこれや考えて結局葬式には出ず、親戚に香典を立て替えて出してもらうことにした。そして丁寧な弔電を従兄あて送っておいた。そして近々帰郷の折、たまたま2月に女房が帯状疱疹になってしまって葬式に出なかったり法事に出なかったりした親戚も含め4か所の親戚を回り、挨拶をすることにした。そのうち機会を作って従兄弟・従姉妹たちが一堂に会することをしたいと思っている。その思いの中には自分が宗家の嫡男でるという自負がある。いろいろあって家は亡父の末弟が継いでいたがその叔父も他界してしまい、わが家の血統の中心は自分しかない。自分がいずれあの世に逝くことになる前に、為すべきことを為しておくことが先祖への供養であり、子孫への遺言となるものである。

  このような考え方は今更古臭いと思う人も多いことだろう。しかし決して古臭くはないのである。先祖を大事に思わない家は決して栄えない。わが家は亡父の代にその思いを強くし、当時は亡父にしてみればあまり頼りにならかった私に直接遺言することなく、系図など仏壇の奥に密かにしまったままにしていた。その私が自分の人生のしめくくりとして子孫に遺すべきものを遺そうとして日々そこに集中している。

  小学校・中学校を通じて同級で、子供のころ一緒によく遊んでいた友から『愚の力』という本を送ってきた。その友が親族と一緒に京都の西本願寺に詣で、そこでその本に出会い、私の住所を伝えて本願寺出版社から直接送ってきたものである。

  この本は浄土真宗本願寺派第24代門主・大谷光真氏が書いたものである。大谷氏は、今の日本はアメリカナイズされた‘すべてを人間中心で動かそうとする’時代の流れともいうべき大きな力に支配されていると言う。人間の精神性の崩壊があったから物質的繁栄がもたらされたと言う。私は全くそのとおりだと思う。

  物質的繁栄が追求される社会では、「みんなが買うから」「みんながするから」「みんなが言うから」と「みんなが」を理由に、みんなが何も考えずに同じ方向に進んでいく。戦争中もそうであったし戦後の高度成長期も今もかわらないと大谷氏は言う。

  全くそのとおりである。以前このブログでも書いたが「いやしき沈黙」もそのような精神構造から生じる。釈尊が口酸っぱくして説く「己を拠りどころとせよ。他を拠りどころとするな」という言葉をあらためてかみしめなければならない。

19 賢者の説いた、意義ある一つの句でも、目的を達成するものであるが、しかし愚者にとっては、仏の説かれたすべてのことでも、目的を達成するには至らないであろう。