2010年6月26日土曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(98) (20100626)

 金魚の水槽の水替えと清掃をする。フィルターの交換も行い、結構時間も費やす。男は本来、家の中に生き物を飼う趣味はない。が、家の中に金魚や熱帯魚の水槽があることは嫌いではない。家の中に観葉植物や花などが飾られている。全部、女房の趣味である。男は植物の世話について女房に手伝うことは殆どないが、金魚や熱帯魚の水槽の清掃については男の仕事のようになっている。以前、長男の嫁から1週間ばかり飼い犬を預かったときもその散歩は殆ど男の仕事になっていた。

 家の中に生き物が全くいないのは確かに殺風景である。女房は言う。「私がいなくなれば家の中は殺風景になるでしょうね」と。ついでにこう言う。「お父さんは誰からもがちゃがちゃ言われずパソコンばかりしていると思うよ」と。

 男はよく家事を手伝っている。女房は昔よく聞いたことのある「炊事、洗濯、お掃除大好き」のタイプである。家の中には捨てても良いような物は既に処分してあり、タンスなど余計な家具はない。二人でいつも‘死支度’をしているので家の中はかなりすっきりしている。しかし男は女房に良く言う。「家事はなるべく減らすことができるようにしようよ」と。つまり、男は家事に自分の時間をあまり取られたくないのである。

 世の一般の老人に比べて男は詩吟や陶芸という良い趣味を持ち、こうしてブログも出しているのでかなり素晴らしい日々を送っていることは確かである。昨日はようやく陶芸で芸術作品を創る意欲が湧いてきた。要は何に時間と言う資源を配分し、何を創り出すかということである。齢をとって‘創造’に歓びが湧いてきたとき、そのようなマネジメントも能率よく行えるようになることに気付いた。

 晴耕雨読の暮らしへの願望から遠ざかった。それは現状からの逃避であることに気付いた。今後1、2年のうちに九州の田舎には帰る回数は必然的に増えてゆくであろうし、向こうに滞在する期間も増えることになるだろう。そのとき屋敷の敷地の一角で今やっているように、独り暮らしの母のためキュウリ一株とかナス一株とか植えて楽しめば良い。そのうちもち長く滞在するようなことになれば、前の空き地を借りて若干の農耕を楽しめば良い。そのうち老母があの世に逝き、家屋敷の処分をしなければならなくなったとき先祖の祭祀のことを決めればよい。今からあれこれ‘休みに似た’馬鹿な考えをする必要はない。

 こうして元気が出たら詩吟の声に張りが出てきた。現金なものである。来月の結婚式で披露する吟や来月の吟題の吟を録音しては自分で聴き、そう感じる。

39 この世で教えをよく説き、多く学んで、何物をももたない人は、楽しい。見よ!人々は人々に対してかたちが縛られ、何物かをもっているために(かえって)悩んでいるのを。


40 何物をももっていない人々は楽しんでいる。何物をももっていない人々は知慧の徳をもっているからである。見よ!人々は人々に対して心が縛られ、何物かをもっているために(かえって)悩んでいるのを。