2011年10月15日土曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(44) (20111015)

“頼朝は朝廷に対しては恭順(きょうじゅん)な態度をとり、つとめて衝突(しょうとつ)を避けた。守護(しゅご)・地頭(じとう)を設置したのは、実質的な日本支配でありながら、古代の律令(りつりょう)そのままに公家を立てているのでる。そして、問題が起こるたびに頼朝自身が従来の不文律(ふぶんりつ)の慣習によって判断していった。

 この頼朝の実質主義、慣例主義をもとに成文化(せいぶんか)したのが第三代執権北条泰時(やすとき)の「御成敗式目(ごせいばいしきいもく)」(貞永(じょうえい)式目)」である。これは聖徳太子(しょうとくたいし)の十七条憲法の項目数を三倍にしたという五十一条の簡単なものだが、当時の武士たちが納得できる道理を主としていたから、武士たちに対しては非常に効き目があった。その方針は、頼朝以来の慣習と、武家の目から見た「道理」を一つにしたものであった。

 泰時は、「京都には律令があるが、それは漢字のようなものである。それに対してこの式目は仮名(かな)のようなものである。したがって、これができたからといって律令が改まるわけでは全くない」と言明している。後には条項が追加されていくが、この式目は武家の根本として、多少の変更を加えながら明治維新まで続いた。

 ではなぜ武家の原理が道理なのかといえば、当時の幕府には立法権がなかったからである。宮廷には上皇、天皇がいて、太政大臣(だじょうだいじん)がいて、その下にも大臣がたくさんいる。その末端に征夷大将軍が位置しているわけである。将軍の指揮権というものはその下であるわけだから、立法権どころの話ではない。だから「道理」を原理として武家をまとめようとしたのである。

 しかし、この道理に基づく式目が明治維新までの武家法の大本になったのは、立法的な権利を振り回さなくても、その内容が皆納得できるものであったからである。

 それ以前の日本の立法は、大宝律令(たいほうりつりょう)をはじめとして唐の影響を受けていた。それから明治憲法は当時の西洋、特にドイツの影響が強かった。戦後の憲法はアメリカの命令によるものである。しかし御成敗式目は日本人が自らの手で作った憲法である。ここに御成敗式目の重要性がある。本当の法律というものは、このように「道理」で納得して、あまり理屈をいわずに皆に受け入れられるものであるべきである。これは特筆大書すべきものであって、御成敗式目は本物の「土着の法律」なのである。

 “武家文化の本質は、わかりやすくいえば、やくざ世界の発想と同じである。やくざの世界は自分たちのシマを守ることに一所懸命であり、親分、義理人情を大切にする。それから女は二次的な役目しかない。物と同じ扱いで、これはマフィアでも、女のことをthingと呼ぶことからも明らかである。また、武士は恥をかいたら切腹するが、これはやくざが指を詰めるのと同等である。要するに血を持って償(つぐな)うわけである”

 御成敗式目に書かれた「道理」は聖徳太子の十七条憲法の内容と「道理」という点で似通うところがある。御成敗式目には必要な「道理」が具体的に書かれている。 (続く)

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