2011年10月27日木曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(56) (20111027)

 “足利八代将軍義政(よしまさ)は東山文化を築いた人物として知られる。応仁の乱で焼け落ちた都を離れた義政は、文明(ぶんめい)十四年(一四八二)、東山山荘の造営をはじめ、そこで銀閣を建てた。銀閣には当初、祖父である三代将軍義満(よしみつ)が造った金閣(きんかく)にならって銀を施すつもりだったらしいが、銀を貼るほどのお金がなかったようで地味な造りになった。しかし、日本人にしてみれば、いぶし銀というのは渋い趣味のもっとも特徴的な言い方である。それがかえって好まれて、銀閣寺文化(東山文化)が生まれるのである。

 絢爛豪華(けんらんごうか)な義満の北山文化に比べ、東山文化は「わび・さび」や「幽玄(ゆうげん)」を特徴とした。義政は、書画、茶碗、茶の湯といったものに対する独特の審美眼(しんびがん)を発揮した。茶室をわずかに四畳半という小さな造りとしたり、また当時シナではあまり高く買われていなかった牧谿(もつけい)の水墨画を評価した。

 こうした義政の感覚は日本人の感性と見事に合致した。それ以降の日本的な美の感覚というのは、義政の系統を引くものといってもよいだろう。ゆえに義政が愛した茶道具は信長や秀吉の時代になると大名物(おおめいぶつ)となり、飛びきりの高値がついて、城一つとでも交換したいというような話にもなった。

 義政は応仁の乱を引き起こした当人であり、政治的な能力は評価できたものではないが、こと美的な感覚については一種の天才であったといっていいだろう。義政にとって日本人の美意識が確立されたと考えれば、やはり忘れてはならない歴史的人物ということになるだろう。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用)

 NHKドラマ『坂の上の雲』に、駐在武官時代も含め7年間ロシア滞在した広瀬少佐が日本に帰国する前親交があったロシアの海軍将校たちによる送別会が行われているシーンがあった。その場所に広瀬少佐と交際していたロシア人女性アリアズナが『荒城の月』をピアノで弾き、会場にいた一同はその演奏に感動するが、後方にいた一部のロシア人たちは「猿が作曲したものではない、あれは贋物だ」と吐き捨てて会場を去る場面がある。
 私は高校時代ある同級生の女性と豊後竹田にある岡城址に遊んだことがあった。其処は滝廉太郎の『荒城の月』の曲が生まれた場所である。作詞者土井晩翠は故郷の仙台青葉城と学生時代に訪れた会津若松の鶴ヶ城を重ね合わせてイメージしながらこの詩を作ったという。この詩にも曲にも室町時代に始まった「幽玄の美」が感じられる。

 春高楼の花の宴 めぐる盃影さして 

千代の松が枝わけいでし 昔の光いまいずこ

秋陣営の霜の色 鳴き行く 雁の数見せて 

植うるつるぎに照りそいし むかしの光いまいずこ

 天上影は変わらねど 栄枯は移る世の姿 

写さんとてか今もなお ああ荒城の夜半の月            (続く)

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