2011年10月23日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(52) (20111023)

 “足利家は八幡太郎(はちまんたろう)源義家(よしいえ)の子義国(よしくに)の二男義康(よしやす)の子孫であり、新田家はその義国の長男義重(よししげ)の子孫である。系図だけなら、新田義貞のほうが上になるが、新田家は名家とはいえ田舎の豪族であるのに対し、足利家は代々北条家から嫁を取るなどして家格が上と見なされた。それにより、足利尊氏が武家では勲功(くんこう)第一ということになった。

 だが公平に見れば尊氏の功績はそれほどではない。鎌倉を滅ぼした新田義貞、千早城で頑張った楠木正成、京都に一番乗りした赤松円心、そして大塔宮(だいとうみや)護良(もりなが)親王の不屈の戦いと令旨(りょうじ)がなければ建武の中興はならなかった。尊氏の功績はこの四人に比べて明らかに見劣りする。

 しかし、その足利尊氏が武士の首領となって、後醍醐天皇と敵対することになるのは、それだけ武士たちの不満が高まっていたということである。恩賞が欲しくて命がけで戦ったのに、僧侶や女官や踊り子の下に置かれたのだから当たり前である。楠木正成ですら後醍醐天皇は皇太子に譲位すべきだと考えていた。赤松円心などは「すぐに天皇親政をやめ、武家政治に戻すべし」と主張した。

 この円心の意見は武家たちの総意といってもいい。では、その武士たちの首領となり得るのは誰かといえば、源氏の正統の家柄からいっても、人間的な器量からいっても尊氏が最適だったのである。”

 “足利尊氏は政治の実権を握るべく画策をはじめる。まずそりの合わない護良(もりなが)親王を排除するため、自分の子を皇太子にしたがっている阿野廉子(あのれんし)と手を結び、後醍醐天皇に対して「護良親王に謀反の恐れあり」と讒言(ざんげん)をした。天皇はそれを信じ、親王を捕らえ鎌倉に送り、尊氏の弟足利直義(なおよし)の監視下に置いた。護良親王はその翌年、北条時行(ときゆき)の鎌倉攻めの際に、鎌倉を脱出する直義の独断で殺されてしまうことになる。”

 鎌倉に鎌倉宮という神社がある。この神社は明治天皇のご意思により明治2年に東光寺跡に建立された。この神社本殿の後方に護良親王が9か月間幽閉されていた土牢がある。建武の中興に尽力された護良親王は鎌倉を脱出する義直の命により義直の家来・淵辺義博により斬首された。護良親王には京都から随行した家臣や女官などいたであろう。ひとり土牢に幽閉されていたときはどんなに辛く苦しかったことであろうか。

 南北朝時代は親族同士である足利家と新田家の争い、足利家の尊氏・義直兄弟間の協調と対立、北朝を立てる足利尊氏と南朝・後醍醐天皇を立てる楠木正成との抗争、足利尊氏は弟・義直と共に北朝を立てていたのに義直が側近・高師直と対立したことがもとで南朝に接近し、高師直が討たれると南朝と手を切ったが兄・尊氏は弟・義直が再び南朝に接近することを恐れ直義の先手を打って南朝に降伏を申し出るなど、南朝を巡る事態が起きた時代であった。                           (続く)