2011年10月3日月曜日

国旗掲揚について思う (20111003)

 15日は「敬老の日」だった。私自身「敬老」対象年齢で女房も今年70を超え子や孫からお祝いを頂いた。一つは甘さ控えめのさっぱりとしたサクサク感のあるチョコレート菓子である。これは長男の娘が家族を代表して贈ってくれた。礼を言うため電話をいれたら嫁が出た。「ほんの気持ちだけのものですみません。今度もうすこし稼いだらもっと良い物を贈ります」という。嫁は子育ても終り自然食品を売る店で働き始めたばかりである。娘も今年大学生になりアルバイトも勉強のうちと自宅近くの塾で数学などを教えている。

 他の一つは二男夫婦が贈ってくれた。金沢の麩の詰め物である。これはお碗に入れ熱湯を注いで麩を柔らかくし、中に詰まっている具を汁の中に出して吸い物として頂くものである。いろいろな味があり、「今度はどれにしようかな」と思案する楽しみがある。

 フェイスブックに「国旗をかかげよう」というプロジェクトがあった。これはただ自分が国旗を揚げるという行為に参加するというだけのプロジェクトである。私と妻は小さなコミュニティのマンション住まいなので、バルコニー(通称ベランダ)に高々と日の丸の国旗を掲げるのは目立ちすぎてそこに高々と国旗を揚げるには気が進まない。そこで玄関ドアにマグネットで固定できるものを買ってきて「敬老の日」に飾ろうと思っていた。

 ところが毎日猛烈な蒸し暑さである。なかなか国旗を買うだけのために遠いところまで出かける気分になれない。その上今回2度目であるがクロス張替えと建具塗装工事がある。とうとう国旗を買いに行く時機を失してしまった。折角プロジェクトに参加していながら実行できなかったことについて後ろめたい気持ちになっている。

 今まさに隣の部屋ではクロス張替えの工事中である。ようやく今日(20日)から涼しい気候になったので、この工事が終了次第早速川崎か渋谷に国旗を買いに行こうと思う。

 日本人をして「日の丸の国旗を買いたい、日の丸の国旗を掲げたい、飾りたい」という気持ちにさせるのは、ごく自然な気持ちによるものが大きい。今この日本で日の丸の国旗を掲揚する家は極めて少なくなっている。その原因の一つは集合住宅が多くなり、戸建て住宅地で向こう三軒両隣のような、ある意味では皆親戚の様なオープンなコミュニティが無くなってきたことがある。今でも山間の小さな部落では、家の鍵をかけなくても盗みを働く者や侵入者を心配しなくてもすむようなコミュニティがある。しかしその他の地域でお互いプライバシーをあまり気にせず暮らせたのは遠い昔の記憶の中でしかなくなった。

 しかし私は日本人の心の深奥には「日の丸の国旗を掲げたい」という気持ちはあるはずだと思っている。多くの日本人はその無意識を無意識のままに置かれていのである。決して日の丸の国旗への敬意を失ったわけではないと思う。その無意識を意識へと呼び覚ますのが「刺激」である。そして周りの人が国民の祝日にごく自然に国旗を掲揚し、あるいは飾るようなると、それに刺激されて自分の家にも国旗を掲揚しあるいは飾る人も増えるだろう。マンション住まいでも玄関のドアにさりげなく国旗が飾られると美しいものである。こうして多くの家々で国旗が掲揚され飾られるようになると、この国は変わるだろう。

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