2011年10月11日火曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(40) (20111011)

 “これには藤原氏の内情がからんでいた。藤原氏の権力争いとは、関白太政大臣(かんぱくだじょうだいじん)藤原忠実(ただざね)の長男・忠道(ただみち)と二男・頼長(よりなが)の間の争いのことである。忠実が頼長を偏愛したのに対し、鳥羽上皇が後白河天皇の即位にあたって忠通を信頼し、忠実・頼長親子を遠ざけたところから対立が生じた。その結果、鳥羽上皇から嫌われた物同士である崇徳天皇と頼長が手を結んだのである。

 このとき崇徳上皇も後白河天皇も武家の力を借りるべく、それぞれ自分たちの側につく者を招集した。そして後白河天皇の側には平清盛(たいらのきよもり)(一一一八~一一八一)や源義朝(みなもとのよしとも)(一一二三~一一六〇)らが味方をし、崇徳上皇の側には清盛の叔父の平忠正(ただまさ)、義朝の父である源為義(ためよし)と弟である源為朝(ためとも)らが加勢をした。

 この戦いは後白河天皇側の勝利に終わり、崇徳上皇は敗走する。その後、崇徳上皇は髪を下して後白河天皇の前に出頭するが許されず、讃岐(さぬき)の松山に配流されてしまう。

 その地で崇徳帝は反省と戦死者の供養(くよう)と都を懐かしむ思いを込めて、自らの血で経典を写し、京の寺に納めて欲しいと朝廷に送るが、受け取ってもらえずに送り返されてきた。激怒した崇徳帝は自分の舌を噛(か)み切って、その血で送り返されてきた写本に「この経を魔道に回向(えこう)す」「われ日本国の大魔縁(だいまえん)となり、皇(すめらぎ)を取って民とし民を皇となさん」と書きつけた。すなわち「皇室を潰(つぶ)してやる」というのである。以来、崇徳帝は髪も爪も伸ばし放題にし、朝廷への恨(うら)みの塊(かたまり)となり、後に生きながら天狗(てんぐ)になったとされる。そして長寛二年(一一六四)、ついに京へ戻ることなく、讃岐の地で亡くなるのである。”

 父親が長男よりも二男を可愛がるということはよくあることである。心理学で「エディプス・コンプレックス」という言葉がある。これはフロイトの造語である。ギリシャ悲劇のオイデップス王の物語の主人公オイデップスはテーバイの王の家の長男に生まれたが、父親殺しをするという神託があったのでそれを実現させないようにするため出生直後父である王によって山中に捨てられてしまう。しかしオイデップスは羊飼いに助けられて育てられ成人する。成人後に王となったオイデップスは知らずに実父を殺し実父の妻、つまりオイデップスの母と結婚する。後に真実が判りその母は自ら縊れて死に、オイデップス王自身も自ら目をくりぬいて盲人となるという悲劇である。

 父親が仕事で家を空けることが多かった時期にその父親の実父が母親に言いよる。母親は父親に「かくかくしかじかかなので家にいて欲しい」と懇願する。父親はそれ以降自分の父と自分の妻に対し不信感を抱くようになる。父親は自分の跡継ぎの長男よりも口のうまい二男を信頼するようになる。長男は家督を継がず別の家を興す。実家を継いだ二男は家を潰してしまう。大事な何かが欠けると先祖伝来の家はつぶれてしまう。その「何か」は何か? DNAだけでなく「体外遺伝子」ともいうべきものが重要である。  (続く)

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