2011年10月12日水曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(41) (20111012)

 NHK大河ドラマに取り上げられた平清盛は保元の乱・平治の乱で台頭した武士たちの象徴的な存在である。この時代以降身分の上下を問わず実力がある者が社会の表に出るようになった。それでもその上に立つ存在が天皇であった。階層の上位に就くにも天皇から官位を授かることにより、初めて社会で認められる存在になる。その権威の仕組みはこの日本国にとって絶対的に必要なものである。左翼や反日勢力にとって、日本におけるこの権威の仕組みが目の上のたんこぶ違いない。渡部昇一『日本史』を続ける。

“保元の乱のあと、都では崇徳帝の呪(のろ)いが現れたかのように、勝った者同士が再び争いを始める。後白河天皇は側近の信西(しんぜいい)を利用して国政改革をめざすが、もともと守仁(もりひと)親王を即位させるためのつなぎとして考えられていたのだから、崇徳上皇を排除した段階で役割は終わっていたのである。美福門院(びひゅくもんいん)は、当初の予定どおり、信西に守仁親王への譲位を要求する。そして、この美福門院の要求が通り、第七十八代二条(にじょう)天皇が誕生することになった。

退位させられた後白河上皇は政治力の維持をはかるが、これに対して二条天皇は、美福門院を後ろ盾として、後白河上皇の政治力排除をめざす。後白河上皇はこれに強く反発し、再び自らに味方する勢力を形成する。その結果、後白河上皇と二条天皇を担ぐそれぞれのグループの間で再び争いが勃発する。これが平治(へいじ)元年(一一五九)に起った「平治の乱」である。

平治の乱では、保元の乱の勝ち組であった平清盛が後白河上皇側につき、源義朝(よしとも)が二条天皇側についた。しかし、義朝は保元の乱で自分の父親を殺したために、当時の武士の間では人気がなかったようである。

一方の平清盛は、より利口に立ち回った。結果として義朝は討たれ、当時十三歳であった義朝の息子頼朝(よりとも)も捕えられてしまう。頼朝は当然処刑されるはずだったが、非常に愛らしく、逮捕後も経をあげたりしている姿を見た清盛の継母、池禅尼(いけのぜんに)は自らの亡くした息子に頼朝を重ねて助命嘆願をする。それによって一命を助けられて、伊豆に流されることになった。結果的に、このとき頼朝を生かしておいたことが平家滅亡の原因となるのである。

さて、勝利を収めた平清盛は栄進を続け、太政大臣(だじょうだいじん)という公家でいちばん高い位につく。これは普通ではあり得ないことである。おそらく、清盛は白河天皇の祇園女御(ぎおんのにょうご)に産ませた落とし子であるという噂を本当のように言い立て、これに多くの人々も納得したのであろう。この手法は後に豊臣秀吉が真似て使っている。武家が宮中で高い位に上がるためには、周囲の人を納得させるための「神話」が必要であったのである。

源氏の衰退で敵がいなくなった清盛は、武力を背景に宮中に影響力を及ぼしていき、ついには自らの娘の徳子(とくこ)(後の建礼門院(けんれいもんいん))を高倉(たかくら)天皇の后にすることで成功する。そして「平家に非(あら)ざれば人に非ず」というほどの全盛時代を築き上げるのである。”                (続く)

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