2011年10月21日金曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(50) (20111021)

 “一方、後醍醐天皇は一説には五十万ともいわれる幕府の大軍と笠置山で戦うが、善戦空しく陥落(かんらく)し、三人の側近とともに楠木正成の赤坂城へと向かう。しかしその途中で幕府に捕まり、元弘二年(一三三二)三月、天皇は謀反(むほん)人として隠岐(おき)に流されてしまう。幕府は次の天皇として持明院統の量仁(かずひと)親王を即位させた(光厳(こうげん)天皇。”

 “赤坂城で幕府軍と激しい戦いを繰り広げた楠木正成は、食糧が尽き援軍の見込みもないというので、城に火を放って逃げ、正体をくらました。戦死したものと思われたが、その一年後に、幕府の留守部隊が警備していた赤坂城を襲い、占領してしまうのである。のみならず、勢力を拡大して金剛山(こんごうざん)に築いた千早城(ちはやじょう)に立てこもり、徹底抗戦をはじめる。

 驚いた幕府は八十万と言われる大軍を送り込むが、千早城だけは何か月経っても落ちなかった。この「落ちない」というのは非常に重要であった。やがて幕府が大軍を送り込んでいるのに、小さな城一つを落とせないという噂が天下に知られるようになり、幕府に不満を持つ勢力があちこちで反幕府の兵を挙げはじめたのである。こうして天下の形勢は一変することになった。

 このとき反幕府の旗を掲げて挙兵した武士の多くは、後鳥羽上皇が挙兵して失敗した承久(じょうきゅう)の乱のとき上皇側について敗れた者の子孫たちだった。また、大塔宮の命を受けた吉野・十津川(とつがわ)あたりの武士がゲリラ作戦を展開しはじめた。さらに大塔宮の令旨(りょうじ)を受けた播磨(はりま)の赤松円心(あかまつえんしん)(一一七七~一三〇五)も挙兵し京に攻め入った。”   

幕府が天皇を謀反人にし、隠岐に島流しにし、同じ神武天皇のY染色体遺伝子を継いでいる皇族を天皇に即位させた、というところが面白い。これは天皇を軽んずる不敬行為であると言わざるを得ない。しかし、一方で幕府は北朝も正統としていたので、北朝の天皇のご意思を汲んで後醍醐天皇を「謀反人」とすることができたのだと思う。さらに面白いのは引き続き渡部昇一『決定版 日本史』を引用するが、隠岐に流されていた後醍醐天皇は隠岐から抜け出して再び兵を挙げている。

 なお、後醍醐天皇まで南朝・北朝交互に天皇を出していた後、幕府が立てた光厳天皇以下北朝系天皇は明治44年(1911年)に明治天皇の勅裁により南朝が正統とされたので皇統は後醍醐天皇と阿野廉子と間にできた第三子である義良(のりなが)親王が第九六代後醍醐天皇の後を継いで第九七代後村上天皇となり、それ以降南朝系の天皇が二代続き、南北朝合一後は北朝系の第一〇〇代後小松(ごこまつ)天皇なり、以降以降続いている。
 南朝・北朝どちらでも神武天皇以来のY染色体遺伝子を受け継いでいる。このことが非常に重要である。「皇統の維持」のため「女系」もやむなしという考え方が広まることは絶対に許せない。なんとしてでも男系の皇統を守らなければならない。
  (続く) 

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