2011年10月7日金曜日


渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(36) (20111007)

 “平安時代は長きにわたって平和な時代が続いた。平和な時代が続くとどういうことが起こるかというと、女性の地位が高まるのである。平安時代の女性文化の高さは、人類の歴史を振り返ってもほかの例がないといえるほどであった。

 現代は男女共学が当たり前だし、入学試験などで男女が相争うことになるが、こういうことがはじまったのは平安時代の「歌合(うたあわせ)」からであったろうと思われる。日本に平安時代が現れるまでは、どこの国でも女性の地位が低かったから、男女が同じ場で争うなどということは考えられなかったのである。

 象徴的なのは比較的身分の低い女流歌人和泉式部(いずみしきぶ)の歌が勅撰集に二百三十八首も入っていることである。最高権力者であり、書も歌も得意であった藤原忠道(ただみち)のものは七十首くらいしかはいっていないのである。これは「和歌の前に平等」という日本の原則が良く守られていたことを示すとともに、女性の地位向上を示しているともいえるだろう。実際、平安時代には無数の女流歌人が出た。

 また『和泉式部日記』をはじめとするたくさんの女流日記文化が生まれた。エッセイでは清少納言(せいしょうなごん)の『枕草子(まくらのそうし)』があり、小説では世界最古最大の小説『源氏(げんじ)物語』が紫式部(むらさきしきぶ)の手によって書かれている。

 しかもこの女性たちはものを書くときはほとんど外来語を使わなかった。あの膨大(ぼうだい)な『源氏物語』の中でも、漢語と呼ばれるものは、例えば「中将(ちゅうじょう)」のような、当時の律令制度として使われていた位ぐらいのもので、普通の地の文章で使うことはほとんどないといってもよい。

 唐という大文明の影響下にありながら、そのボキャブラリーをほとんど使わないで大小説を書き上げるというのは実に目覚(めざま)ましいことである。チョーサーもシェイクスピアもそんなことはできなかった。ローマ帝国の言葉であるラテン語系の単語だらけだ。(以上、渡部昇一『日本史』より引用)

 平安時代は794年から1192年まで約400年間も続いた。日本では飛鳥・奈良・平安を「古代」とし、鎌倉時代だけを「中世」とし、江戸時代は「近世」であるが、ヨーロッパでは西暦500年ごろから1500年ごろまでを「中世」としている。ヨーロッパの「中世」は異端訊問・魔女狩りなどあり、ゲルマン民族が支配する「暗黒時代」であった。日本人はヨーロッパと日本のこの違いを認識する必要がある。

 因みに中国では唐王朝は618年から904年まであった。その間、日本から唐に学ぶため遣唐使が630年から894年まで18回計画され内2回船破壊(第十二次)・無風(第十三次)で中止され、最後の第十八次は菅原道真が遣唐大使に任命されていたが道真の建議により中止されている。それは当時の唐王朝が874年頃から黄巣の乱などにより末期状態になり、弱体化して首都・長安周辺のみを治める状況になったからである。 (続く)