2011年10月24日月曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(53) (20111024)

 “尊氏はその北条高時を討伐するために自ら征夷大将軍を名乗り、勝手に出陣する。すると在京の武士の半数以上がこれに従った。朝廷は尊氏を懲罰にかけることもできず、逆に従二位(じゅにい)を授け、労をねぎらい、兵を京に戻すように促すが、尊氏はそれに従わなかった。それどころか、鎌倉で勝手に論功行賞(ろんこうこいうこうしょう)をはじめ、部下たちに土地を与え、寺社にも寄付をした。これによって武士の間で尊氏の人気は一段と高くなった。もはや尊氏ははっきりと反朝廷へと旗幟(きし)を鮮明にしていた。

 これに対抗したのが新田義貞である。尊氏が論功行賞として与えた土地が東国にあった新田の領地であったことを聞いた義貞は天皇側の総帥として尊氏と対峙(たいじ)することになった。・・(中略)・・戦争には「錦(にしき)の御旗(みはた)」が必要だから光厳(こうげん)天皇から院宣(いんぜん)を貰うべきであること。持明院(じみょういん)統の光源厳天皇は建武の中興で政治的には御用済みのような形になっていたが、もともと正式にあとを継いでいるのだから院宣を与えることができる。それをもらえば尊氏も官軍になれるのである。

 尊氏は赤松の案に従って九州で大軍を集め、京に攻め上がる途中で院宣を受け取った。これで尊氏も官軍となったのである。”(注:光厳天皇は、楠木正成が仕える大覚寺統の後醍醐天皇が謀反人として隠岐に流されていたとき幕府によって即位させられていた持明院統の天皇である。その後醍醐天皇が隠岐から抜け出して来て京都に戻っていた。)

 “尊氏が大軍を引き連れて攻め上がってきたと聞いたとき、楠木正成は「尊氏軍と正面から戦ってもかなわないから、天皇はひとまず比叡山(ひえいざん)に逃れて時機を待ってはどうか」と進言した。・・(中略)・・ところが公家たちが「天皇が京を去るのはよくない」と口を出し、楠木正成の計画はいれられなかった。文民統制の失敗である。仕方なく楠木正成は自分の意に反して出陣し、摂津国湊川(みなとがわ)で玉砕(ぎょくさい)するのである。

 結局、後醍醐天皇は比叡山に逃げ込むが、最後には足利尊氏との和睦(わぼく)を受け入れて光厳天皇の弟である持明院統の光明(こうみょう)天皇に三種の神器を譲り、太政(だじょう)天皇という名目のみの位をもらって花山院(かざんいん)に幽閉(ゆうへい)されることになった。・・(中略)・・しかし後醍醐天皇はまだあきらめなかった。その後、花山院を脱出して吉野(奈良県)に逃げ、尊氏側に渡した神器は贋物(にせもの)であるとして、吉野朝(南朝)を開くのである。

南朝は後醍醐天皇の死後も続き、南北朝が一つになるのは幕府が開かれてから五四年後の明徳(めいとく)三年(元中(げんちゅう)九/一三九二)のことであった。(明徳の和約)”

そこに至るまで、足利尊氏とその弟・直義との間の対立など紆余曲折があった。富の支配権をめぐる骨肉の争いは昔も今も変わらない。何かルールが必要である。  (続く)

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