2011年10月5日水曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(34) (20111005)

 “和気清麻呂が宇佐八幡に行くと聞いた道鏡は、清麻呂を呼び、賞罰をちらつかせて圧力をかけた。自分に有利になるように言ってくれれば高い地位に付けてやるが、逆らうなら容赦しないぞと脅したのである。

 しかし、清麻呂が持ち帰った神託は

 「天(あま)つ日嗣(ひつぎ)は必ず皇儲(こうちょ)を立よ。無道(むどう)の人は宜(よろ)しく早(すみ)やかに掃(はら)い除(のぞ)くべし」

 つまり「天皇となる者は皇孫でなければならない。道鏡を絶対に皇位につけてはならない」というのである。”

 “道鏡は大いに怒り、和気清麻呂を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて、大隅国(おおすいのくに)(今の鹿児島県)に流してしなう。その途中も何度か襲われて殺されそうになるが、そのときに猪(いのしし)三百頭が出てきて清麻呂を助けたという話が残っている。この猪が何かわからないが、おそらく皇室に味方する土着の部族ではなかったかと推測している。

 このため猪は清麻呂の随身と尊ばれることとなった。戦前、和気清麻呂は十円札の肖像となっていたが、そこに猪も一緒に刷ってあった。私の親たちは、この十円札を「猪(いのしし)と呼んでいたものである。また和気清麻呂を祀(まつ)った和気(わけ)神社(岡山県)には狛犬(こまいぬ)の代わりに「狛猪(こまいのしし)が飾られている。

 その和気清麻呂を助けた人に藤原百川(ももかわ)(七三二~七七九)がいた。百川は大隅国に流された清麻呂に仕送りを続けた。百川も密かに道鏡の排除を企て、清麻呂の側面援助をしていたわけである。

 このようにして和気清麻呂の活躍で道鏡の野望は絶たれた。道鏡は神護景雲(じんごけいうん)四年(七七〇)に称徳天皇が亡くなると関東の田舎の寺に追放され、その地で生涯を終える。称徳天皇のあと、天皇の王朝は天智天皇系に戻り、光仁(こうにん)天皇が即位すると、清麻呂は直ちに召喚されて従五位下(じゅごいのげ)に復した。”

 孝謙・称徳天皇は、聖武天皇と光明子(こうみょうし)の娘である。天皇の地位に就くことが定められていたので結婚しなかった。光明子は藤原鎌足の息子・不比等(ふひと)と橘三千代(たちばなのみちよ)の娘である。

 藤原四家(京家・式家・北家・南家)の各始祖のうち、京家は勿論母は違うが鎌足の次男・不比等と娘:五百重娘(いおえのいらつめ)の間にできた麻呂(まろ)である。この百重娘は初め天武天皇夫人であり、後に不比等の妻となっている。

南家の始祖・武智麻呂、北家始祖・房前、式家の始祖・宇合(うまあい)の母は蘇我娼子(そがしょうし)であり、娼子の父は蘇我連子そがれんし)である。この連子の父は中大兄皇子(後の天智天皇)に誅伐された入鹿の叔父にあたる。なお、不比等の母(鎌足の正妻)は、中大兄皇子の妃であった鏡王女(または鏡姫王、鏡女王)である。(続く)  

0 件のコメント: