2011年10月25日火曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(54) (20111025)

 “南朝を支えていたのはほとんど北畠親房(きたばたけちかふさ)(一二九三~一三五四)一人だったといっていいだろう。そもそも「南北朝」という考え方自体、北畠親房から出たと考えていい。親房は南朝の総参謀長として、おそらくは宋(そう)の司馬温公(しばおんこう)が記したシナの歴史書である『資治通鑑(しじつかん)』から着想を得て、南朝・北朝という概念を打ち立てたものと考えられる。そして、南朝のレジティマシー(正統性)を唱えて士気を鼓舞したのである。・・(中略)・・

 北畠親房は『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』という南朝の正統性を主張した歴史書を書いている。後世に残るこの歴史書は、彼が南朝勢力拡大のために船で奥州に向かう途中、暴風に遭って難破し、常陸(ひたち)国(茨城県)に上陸して小さな城に籠城(ろうじょう)していたときに書かれたものである。もともとは後醍醐天皇の息子の義良(のりなが)親王(後の後村上天皇)のために書かれたものといわれている。・・(中略)・・

 楠木正成の三男の正儀(まさのり)などは、何時まで戦っても見込みがないと北朝との和睦(わぼく)をめざし、一時は北朝に投降して一族の怨みを買ってしまった。

 その後、北畠親房が死に、楠木正儀の子正勝(まさかつ)が落ちたことのない千早城(ちはじょう)で敗れてしまい、南朝は和平に応じるより道がなくなった。そして三代将軍義満(よしみつ)の時代に南北朝が合一されるのである。

 ここまで南北朝時代が続いたのはなぜか。それは、南朝も北朝も皇位継承権がある男系だったからである。明治の皇室典範(こうしつてんぱん)はこの前例を踏まえて作られている。

 さて、足利幕府は南北朝の合一に成功した義満の時代に非常に大きな力を得た。義満自身は天皇に肩を並べるような、あるいはかつての蘇我入鹿(そがのいるか)や道鏡(どうきょう)にも比べられるような権威を持った。すなわち自分の妻を天皇の母(国母(こくぼ)にし、義満自身は太政(だじょう)天皇(天皇の母の夫)という立場に立ったのである。そしてついには偏愛していた二男の義嗣(よしつぐ)を天皇にしようと画策した。

 ところがそんな計画を立てた途端に発病し、十日後くらいにあっけなく死んでしまうのである。すると不思議なことに義満の息子は逆に皇室尊重の態度を示すのだから日本という国は面白い。

 日本の皇室は、山あり谷ありで、何度も切れそうになりながら辛(かろ)うじて続いてきたようなところがある。・・(中略)・・

 神代から見てくると、皇室は何度も断絶の危機に瀕(ひん)していることがよくわかる。しかし、それを乗り切って、次第に万邦無比(ばんぽうむひ)な安定した王朝になっていったのである。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用)

 戦後マッカーサーによって十五宮家のうち十一宮家の皇籍離脱が決定された。今、男系の皇統の維持が黄信号である。何としてでも男系皇統を維持しなければならない。(続く)

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