2011年10月14日金曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(43) (20111014)

“ついでにいっておけば、四回目の国体変化は明治憲法の発布であり、五回目は敗戦による占領憲法の制定である。先にも述べたが、憲法は英語で「コンステューション」といい、これは元来「体質」という意味を持つ。したがって、憲法の制定は国の体質が変わったと考えてもいいだろう。ただ、日本では国体は変わっても断絶はしなかったという点が大変に重要なのである。

 “その意味で、鎌倉幕府は民主政権だったのである。北条氏は日本の歴史上初めて民政を意識して、民の暮らしをよくすべきだという発想を持っていた政権でもある。それが何によってもたらされたかと考えると、おそらく頼朝側近の大江広元を通じて北条氏に伝わった『貞観政要(じょうかんせいよう)』の存在があったものと想像される。

 『貞観政要』は、統治者がいかにあるべきかを教えた書物で、唐の第二代皇帝太宗(たいそう)が側近の魏徴(ぎちょう)たちと腹を割って闘わせた政治論をまとめたものである。これはトップのための教訓で、日本には平安時代に伝えられ、清和(せいわ)天皇のときに貞観(じょうかん)という年号(八五九~八七七)もできたほど宮廷では重んじられた。

 北条政子もその重要性を知り、自らは漢文が詠めなかったため、公家の菅原為長(すがわらのためなが)に仮名訳させて読んでいる。そして、上の者は威張ったり贅沢(ぜいたく)をしたりしてはいけない、民を重んじなくてはいけないと、『貞観政要』の教える要点を押さえた政治をしているのである。

 シナではそのご実行されることのなかった『貞観政要』の精神は、日本の武家政治に入り込み、明治初年んい日本に来た欧米人すべてを驚嘆させるほど高い民度の国をつくるのに貢献した。”

 日本は敗戦によって体質を変えさせられた。いわば一人の人間が強制収容所で洗脳され従来と異なる食べ物を与えられ薬漬けにされ、条件反射的に行動するように訓練され、人が変わったようになってしまったようなものである。

 いくら日本人が怖かったからとはいえアメリカはやりすぎだった。なにもアメリカ流の憲法や精神を日本に押し付ける必要はなかった。今その弊害が現れていて今度は利益確保を目的に行動するアメリカ自身が困る状況になりつつある。太平洋とそれに接する国々の地勢図が中国の台頭や朝鮮半島の情勢で変化しつつあるからである。

かつて日本が盟主であった太平洋地域おけるアメリカの国益と日本の国益とは合致すると私は思う。問題が起きたらその原点に立ち戻ればよい。その原点とは明治憲法下の日本精神である。皇国史観と教育勅語で代表される日本の本来の精神である。

そこに立ち戻るには日本一国だけでは困難である。アメリカと日本が共同で声明を発表し、現憲法制定時の国際情勢などを挙げて「当時としては現在の憲法制定はやむを得なかった」という趣旨で日米共同声明を発表することである。 (続く)

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