2011年10月19日水曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(48) (20111019)

 夢窓国師『夢中問答集』で国師と問答した足利直義は南北朝時代という皇位継承の混乱期に生きた武将である。北条氏の幕府に代わって兄・尊氏とともに足利幕府を樹立し、天下に副将軍と言われた。南北両朝が存立した原因について渡部昇一『日本史』を引用する。

 “南北朝の争いのもとは、後嵯峨(ごさが)天皇の私情によるものである。後嵯峨天皇には久仁(ひさひと)親王(後の後深草(ごふかくさ)天皇)と恒仁(つねひと)親王(後の亀山(かめやま)天皇)という二人の皇子がいた。皇位は当然、長男である久仁親王が譲り受けることになったが、後嵯峨天皇はことのほか、二男の恒久親王を愛され、皇室財産である所領の多くを恒仁親王に譲ろうとした。それだけではなく、皇位を後深草天皇に譲った後嵯峨上皇はどうしても恒仁親王を皇位につけたいと考え、後深草天皇が結婚してまだ子供ができないうちに恒仁親王を皇太弟(こうたいてい)とした。さらに後深草天皇が病気になると、まだ十七歳であったにもかかわらず退位させて上皇とし、恒仁親王を皇位につけた。このとき即位した亀山天皇はわずか十一歳だった。・・(中略)・・

 後嵯峨上皇は文永九年(一二七二)に遺言状を残して亡くなる。その遺言状には財産分与については明記されていたが、誰が宮廷の実権者になるかは幕府にまかせるとしか書かれていなかった。これがトラブルのもとになった。

 時の執権時宗は元の来襲に備えて全力を傾注しているところであり、宮廷内の問題にはかかわりたくないという気持ちだったのだろう。そこで、後嵯峨上皇の皇后であった西園寺姞子(さいおんじきつこ)(大宮院(おおみやいん))に上皇の本心がどこにあったかを問い合わせた。すると大宮院は「後嵯峨上皇は亀山天皇の親政を望まれていた」と答えたという。

 その結果、幕府は亀山親政を決め、皇太子にも亀山天皇の息子である世仁(よひと)親王(後の後宇多(ごうだ)天皇)を立てた。かくして皇統は嫡流(ちゃくりゅう)を離れてしまうことになった。後深草上皇にすればこれは心外というしかない。・・(中略)・・

後深草上皇は悩んだ末に出家を考える。それを聞いた時宗は同情し、評定(ひょうじょう)を開いて、後深草上皇の皇子煕仁(ひろひと)親王を亀山天皇の猶子(ゆうし)(子とみなすこと)とし、将来煕仁親王が即位したときは後深草上皇の院政にすることにして一応の決着をみた。

この約束は守られ、後宇多天皇は煕仁親王に位を譲り、煕仁親王は九十二代伏見(ふしみ)天皇となる。そして後深草上皇が院政を敷いた。

その後、後深草上皇の系統を持明院(じみょういん)統(後の北朝)と呼び、亀山上皇の系統を大覚寺(だいかくじ)統(後の南朝)と呼ぶようになった。この両統はだいたい交互に皇位を譲り合っていたが、次第に対立するようになる。”

                                   (続く)

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