2011年10月9日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(38) (20111009)

 昨年10月NKHが大河ドラマ『平清盛』の制作発表で「時代(とき)が動き英雄(サムライ)が生まれた」という見出しで「今から900年前、王家や貴族が対立し、混迷を深めた平安末期、1人の男が現われ、この国の行く先を示した」と書いた。因みにこのドラマの脚本家・藤本有紀は「貴族社会が揺らぎ、天皇家の確執が武力闘争に発展し、やがて武士の世へと移り変わっていく平安末期、抜き差しならない状況の中で平家も源氏も天皇家も摂関家も僧徒も、頭脳を駆使し肉体を躍動させて命がけで生きています」と書いている。

 NHKは天皇家のことを「王家」と書いた。聖徳太子は天皇を「天子」と言ったが日本の歴史の中でこれまで天皇を「王」と言った者は誰一人いなかった。ただ世界に「天子」とするものはシナの皇帝だけであるという中華思想の国・シナだけが天皇のことを「王」といい続けた。NHKは日本の歴史の中で初めて天皇のことを「王」と言った。これは全く許し難い行為である。このことについてNHKに対し強い抗議の声が上がっているが、NHKは修正する気は全くないようである。戦後の歴史教育の欠陥が各方面に現れ始めている。このままでは日本は危ない。なんとかしなければならぬと思う。

 武士の世へと変わって行くキーマンは平清盛である。清盛は保元の乱(1156年)のとき後白河天皇側に就いて戦に勝ち、続く平治の乱(1159年)においても二条天皇即位により上皇になった後白河側に就いて勝利し、朝廷で栄進を続け公家最高位の太政大臣にまで上り詰めた。この乱のとき上皇の政治的影響力を排除しようとした二条天皇側に就いていた源義朝は討たれ、その子頼朝も処刑されるはずのところ、清盛の継母による助命嘆願で助けられた。この清盛の処置が26年後の1185年の平家滅亡の原因となった。

 渡部昇一『日本史』には武士の時代の台頭について非常にわかりやすく書かれている。その部分を全文括弧(“”)で引用したいと思う。

 “平安時代には非常に平和な時代が四百年あまりも続いた。例えば、京都では、第五十二代嵯峨(さが)天皇(在位八〇八~八二三)の御代(みよ)から三百年以上も死刑が行われなかったほどである。

 しかし、この平和な時代は突如として崩れてしまった。それはどうしてかといえば、まさに平和な時代の特徴であったルーズな男女関係が皇室にはびこったことによる。その中心人物となったのが第七十二代白河(しらかわ)天皇(在位一〇七二~一〇八六)であった。

 白河天皇は最愛の中宮(ちゅうぐう)であった藤原堅子(ふじわらのかたこ)を亡くされ大いに悲しんだ。その後、低い身分の祇園女御(ぎおんのじょご)を愛されるようになるが、彼女は大納言(だいなごん)藤原公実(きんざね)の娘・璋子(たまこ)(後の待賢門院(たいけんもんいん))を養い育てていた。白河帝もこの少女を可愛がり、やがてお手つきとなった。”                            (続く)

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