2011年10月22日土曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(51) (20111022)

 “そのうちに後醍醐天皇が隠岐島(おきのしま)から抜け出して、伯耆(ほうき)国(鳥取県中部・西部)の船上山(せんじょうざん)で名和長年(なわながとし)の援助で兵を挙げる。おかしいのは、後醍醐天皇討伐のために派遣されたはずの足利高氏(尊氏)まで天皇に帰順し、幕府に対して寝返ってしまう。同じく新田義貞(にったよしさだ)は関東で兵を起こして鎌倉に攻め入り、幕府を滅ぼすのである。”

 “このようなことが一か月くらいの間にバタバタ起こった。そして後醍醐天皇は京都に戻り、政治を執ることになった。源頼朝が幕府を開いてから百四十年ぶりに政権は朝廷に戻った。これがいわゆる「建武(けんむ)の中興(ちゅうこう)」である。

 ところが建武の中興はうまくいかなかった。恩賞がでたらめだったのがそのいちばん大きな理由である。北条幕府が元寇後の恩賞問題で衰退していった失敗例を、後醍醐天皇も繰り返してしまったのである。

 ただ北条幕府の場合は同情すべき点もあるが、今回のは同情の余地がない。というのも、恩賞は全く不公平なものだった。阿野廉子(あのれんし)(一三〇一~一三五九)という側室の意見によって左右された。後醍醐天皇にしてみれば、自分と一緒に隠岐島のような、当時は地の果てみたいな場所に流されたときについてきた女官や公家に重きを置きたい気持ちがある。また、当初味方についていた比叡山(ひえいざん)の僧なども恩賞を求めてきた。後醍醐天皇はそういう者たちに莫大な領地を与えた。”

 “そもそも建武の中興は平安時代のような王朝への復古をめざすものであり、公家と女官の王朝文化華やかな時代を理想としていた。・・(中略)・・武家などは見下すべき存在で、むしろ武家なき世こそ望ましいと考えていたのである。

 だから武士たちは必ずしも報われなかったのである。・・(中略)・・建武の中興の立役者(たてやくしゃ)というべき楠木正成さえ、もともとの領地である河内(かわち)と摂津(せっつ)を与えられただけだった。

 例外は足利尊氏と新田義貞である。この二人は北条家から寝返ったが、どちらも源氏という出自(しゅつじ)の良さがあった。武家をなくしたいと後醍醐天皇は考えたが、武家の力なしに天皇親政はかなわないこともわかっていた。そこで、家柄を重視するという宮廷風のやり方で、この二人を取り上げたのである。”

 後醍醐天皇と武士団はその時代の「支配者」で、その時代の民が望んでいたものあった。動物であるアザラシが極北の民イヌイットを「誘い」自らを捕獲させ殺させるが、それによってイヌイットはそのアザラシから「命令」されて、イヌイットの集団の中ではアザラシの肉を「分かち合う」。つまり富の分配の命令者は人間集団の「外」に存在する世界では、人間集団の中に「支配者」は要らない。

しかし現実の世界では必ず「支配者」が必要である。「市民」は支配者にはなり得ない。民主党のマニフェストにある「国家主権の委譲」はとんでもない偽善である。 (続く)

0 件のコメント: