2011年10月6日木曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(35) (20111006)

 “光仁天皇のあとをついだのは、同じく天智天皇系の桓武天皇(在位七八一~八〇六)であった。桓武天皇の即位には、和気清麻呂を助けた藤原百川の力が大きかったとされる。

 延暦十三年(七九四)、桓武天皇は都を京都に移す(平安遷都(せんと))。そして京都に移ると、藤原氏の全盛時代がはじまる。奈良においても藤原不比等が初めて天皇の祖父となり、結婚政策によって宮中の勢力を握り、藤原時代の到来を思わせたが、京都における藤原氏の栄華はそれをはるかにしのぐものであった。”

 “ハプスブルグ家には武名の高い君主もいないのに神聖ローマ帝国の王冠を受け継いでいた。藤原氏はこのハプスブルグ家と同様に結婚政策によって実権を握っていた。しかし、奈良の時代にはまだ競争する部族もあり、また藤原氏から出た藤原仲麻呂が皇位継承問題で迷惑をかけ、結果として道鏡の勢力拡大を招くという失敗もあった。だが、藤原百川の和気清麻呂への助力もあって、道鏡は排除され、皇統断絶の危機は回避された。
 それ以降、仏教が日本の皇位の脅威になることは今に至るまで一度もない。そして、百川の担(かつ)いだ桓武天皇が第五十代天皇となると、いよいよ本格的な藤原時代がはじまることになる。”

 “藤原氏が全盛を迎えた一つの理由は、他の部族からの安心感があったのではないかと考えられる。藤原氏はどんなに強力になっても、重要なところで節度を守っていたのである。蘇我氏や道鏡のように皇位を狙うという考えは一切なかった。

 “藤原氏は天児屋根命(あめのこやねのみこと)(天照大神(あまてらすおおみかみ)が天(あま)岩戸(いわと)に入ったときそのまえで祝詞(のりと)をあげた)を先祖とする中臣(なかとみ)家の子孫で、神話に出てくる部族のうちでお最も古い名家の一つである。しかも皇孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日本の島にやってきたときは、その先駆部隊としてついてきたことになっている。
 これは藤原氏の誇りであると同時に、もしも自分が天皇になると、自らの氏族のプライドの源である神話に背(そむ)くことになってしまうのである。神話の重要さは現代人にはわかりにくいところもあるが、それがほかの部族にもわかったがゆえに、皆、藤原氏には安心するところがあったのであろう。

 “平安朝における藤原氏の絶対性は、一つは神話に基づく慎(つつ)みがあって天皇家が安泰であると誰にでもわかったこと、もう一つは律令制度をつくりあげた家として、それを利用して広大なる土地を自分のものにしたということ、この二つによって築かれたということになる。”(以上、渡部昇一『日本史』より)

 有田という名字の出自は幾つかあるが、わが家は藤原氏族で豊前国田川庄の庄司だった隆輔の田川流である。隆輔は土着貴族で一族に安田氏・有田氏等諸氏がある。わが家に書写されながら伝えられてきた由緒書あり、それによるとこの田川流有田氏子孫が京都から下って来た藤原氏姓の下級官人と何かつながりを持ったらしい。    (続く)

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