2011年10月17日月曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(46) (20111017)

 “それでも最後の頃に、九州の豪族の少弐資能(しょうにすけよし)の息子の景資(かげすけ)が射た矢が敵将劉復亨(りゅうふくきょう)に当たり、彼が死んでしまう。当時の軍隊のこと、大将が死ぬと戦闘ができなくなって、元軍は日本軍の追撃をあきらめて船に引き揚げるのである。すると日本にとって幸いなことに、その夜、大嵐が来て元軍の多くの船が沈んでしまった。残った船も撤退を余儀なくされた。

 当時の人々がこれを「神風(かみかぜ)」と呼んだのは、まさに実感であったと思われる。

 その後、一度は退いたものの、フビライは南宋(なんそう)を征服し、弘安(こうあん)四年(一二八一)、今度は南宋の軍隊を使い、十数万人の大軍を博多湾に派遣してきた。これが「弘安の役」である。

 その間に幕府は防衛のため堅固な防壁をつくり、簡単に突入できないように備えていた。また、敵船に切り込むなど果敢な攻撃もあり、元軍を長期間海上に留めていた。やがて閏(うるう)七月、大暴風雨がやってきて、海上の元軍は全滅した。十数万の元軍のうち、帰国できたのは二割にも満たなかったという。再び神風が吹いたのである。

 強力な軍隊を有していた蒙古が侵略できなかった場所は三つあるといわれる。東ドイツの森と、ベトナムのジャングルと、それから日本海の沿岸である。”

 “蒙古来襲に対して、朝廷では諸社寺に国難打開の祈祷(きとう)を命じ、当時の亀山(かめやま)上皇自身も伊勢神宮に参拝して「国難に身を以て代わらん、わが命を召されてもいいから敵を滅ぼしたまえ」と奏上(そうじょう)した。それによって神風が吹いたと朝廷は思い込んだ。

 そのため、実際に蒙古と戦った武士をあまり重んじなかった。時宗の功績に対する朝廷の評価も極めて低く、従五位上(じゅごいじょう)から正五位下(しょうごいげ)に位が一級上がっただけだった。

 時宗の働きが認められたのは日露戦争の頃で、明治天皇は元寇の際の時宗の苦労を思いやられて、明治三十七年(一九〇四)、勅使(ちょくし)を鎌倉の円覚寺(えんかくじ)にある時宗の墓にお遣(つか)わしになり、従一位(じゅいちい)をご追贈(ついぞう)になられたのである。”

 私と妻は鎌倉に良く出かける。毎年晩秋の鎌倉も楽しんでいる。円覚寺にはJR横須賀線北鎌倉駅を降りて鎌倉まで散策する途中必ず立ち寄る。何年か前のことであったが、円覚寺の時宗廟にお参りしたいと思い、受付の女性にその旨言って中に入った。その時つい靴を脱いでお廟の堂内に上がってしまった。本当は下で手を合わせるべきであったが、無意識に靴を脱いで上に上がってしまったのである。平日だったせいで観光客も少なく、私と妻以外にお廟に参る人もなく、受付の女性も気さくな女性で私たちに何の注意も払わなかった。後で思うと不思議なことであった。その時の私は時宗が明治になって追贈されたことを知っていて、時宗や北条一族に対して特別な思いがあった。   (続く)

0 件のコメント: