2011年10月16日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(45) (20111016)

 “文永五年(一二六八)、ジンギスカンの孫の世祖フビライ・ハンが高麗(こうらい)を通じて日本に国書を送ってきた。当時一七歳の執権北条時宗(ときむね)は、返書を送ろうとする朝廷の意向を拒絶し、朝鮮の使者を追い返してしまった。国書の内容が無礼だったからである。

 時宗が使者を追い返したことで、フビライ・ハンは日本攻撃の命令を出した。かくして文永十一年(一二七四)、「文永の役」がはじまる。

 文永の役のとき元(げん)(蒙古(もうこ))軍はおよそ四万、そのうち八千人は朝鮮の兵であった。元軍はまず対馬(つしま)を襲い、残虐の限りを尽くして全島を奪った。わずか八十騎で迎え撃った対馬守宗助国(そうすけくに)は無残にも玉砕(ぎょくさい)した。続いて上陸した。続いて上陸した壱岐(いき)でも、守護代平景隆(たいらのかげたか)が自決、その家族も皆殺しにされた。

 戦後日本の電力業界の鬼と言われた松永安左衛門(まつながやすざえもん)は壱岐の出身であり、常々「俺の血には蒙古が入っている」といっていたそうである。なぜかというと、壱岐の男はほとんど殺されて女は皆強姦されたから、というわけである。それほどまでの虐殺が行われたのである。

 元寇(げんこう)については戦後あまり語られなくなったが、われわれの子供の頃、蒙古は非常に恐れられていた。「捕まった人たちは手に穴をあけられて船べりに吊(つ)るされた」などという話も伝わっていた。・・(中略)・・モッコとは何かと聞くと祖母も知らなかったのだが、「いちばん恐いものはモッコなんだ」と繰り返し言うのである。おわかりかと思うが、モッコというのはモーコ(蒙古)のことなのである。元寇のときの蒙古の恐ろしさが、東北の山の中でもこのような形で語り継がれていたわけである。

 さて、対馬・壱岐を侵した元軍は十月二十日に博多湾から箱崎付近に上陸し、迎え撃つ鎮西(九州)のおよそ五千の日本軍と激烈な戦いがはじまった。

 元軍は大陸の戦闘に慣れているため集団戦法で攻めて来て、日本は苦戦する。また、このときはじめて大砲というものを知る。大砲といっても弾丸を撃つのではなく、火薬の塊(かたまり)に火をつけて投げる擲弾筒(てきだんとう)のようなものだったらしいが、経験のない攻撃に日本軍は押され、どんどん退いてしまう。”

 自民党の国会議員たちが鬱陵島に行こうとして訪韓したが入国を拒否された事件があった。その鬱陵島には日本語で書かれた大きな看板が観光客の目に止まるように掲げられていてそこには「対馬は韓国の領土」と書かれている。とんでもないことである。

 玄葉外相訪韓時韓国はまた慰安婦問題解決を強い口調で要求してきたという。韓国人は日本固有の文化・日本オリジナルの文化をなんでも真似し、少し内容を変え、それを韓国が最初に創ったと宣伝したり、日本固有の文化・日本オリジナルの文化をそっくり取り入れそれが韓国に起源があるような物語を創って宣伝したりする。何故韓国人はそうなのか、元寇のとき元軍4万の中の8千人の朝鮮兵は対馬で日本人皆殺しに加担したに違いないと約750年前の出来事に重ね合わせをあれこれ想像している。        (続く)

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