2011年10月8日土曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(37) (20111008)

女帝の時代

 日本の皇室の歴史の中に初めて登場する女帝は三十三代推古(すいこ)天皇である。そして三十五代皇極こうぎょく)天皇が二人目の女帝となるが、このときは日本の皇室が初めて皇統の危機を迎えた時期であった。すなわち蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)親子が勢力を握り、入鹿自身が皇位を狙ったのである。そのため簡単に男系男子を天皇に戴く政治的状況になく、中継ぎとして皇極天皇が立てられたのである。以降、四十八代称徳(そうとく)天皇の崩御(ほうぎょ)に至るまでの百十五年の間に、重祚(ちょうそ)を含めて七人の女帝が即位された。まさに女帝の時代であった。

 ただ女帝になる方の資格というものは唐人お意識としても非常に厳格で、天皇の子か孫であって、しかも天皇の未亡人で妊娠の可能性がないことが条件とされた。未婚の娘が女帝になる場合は終生結婚しないという前提があった。

 “孝謙(こうけん)天皇が重祚して称徳天皇となったとき、称徳天皇はタブーを破って弓削道鏡(ゆげのどうきょう)に皇位を渡しかねないような状況があった。このとき皇室は二度目の皇統の危機を迎えたわけだが、この経験から女帝を置くことに慎重になり、平安時代以降は約八百九十年間、江戸時代に至るまで一人の女帝も出なかった。

 徳川時代には二人の女帝が立てられているが、これは皇位を継ぐべき皇子が非常に幼かったためで、その姉に当たる方がまさに中継ぎとして即位された。もちろん、このときの女帝は終身独身であられた。

 日本の女帝は、そういう特別な条件のもとに生じ、しかも男系を損なうような性質のものではなかったのである。

 念のためいっておけば、男系というのは父親だけをたどって初代天皇の神武(じんむ)天皇まで、遡(さかのぼ)れるということ、神話まで含めて考えれば天照大神(あまてらうおおみかみ)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)につながるという意味である。

 古来、天皇は「象徴」であり、国民統合の中心であられた。これは現在においても変わりはない。このことを日本国民は再認識すべきである。このような日本の国体を何としてでも崩壊させようと企む国内外の勢力がある。われわれはそれを警戒し、その活動を抑制しなければ、われわれの日本国の「自存」は危うくなるものと知るべきである。

「教育勅語」の復活こそ日本の「自存」力を高める最良の手段である。私は、現憲法下においても「教育勅語」は全く矛盾しないと確信している。

「朕(ちん)惟(おも)うに、我が皇祖(こうそ)皇宗(こうそう) 国を肇(はじ)むること宏遠(こうえん)に 徳(とく)を樹(た)つること深厚(しんこう)なり 我(わ)が臣民(しんみん)克(よ)く忠(ちゅう)に克(よ)く孝(こう)に 億兆(おくちょう)心を一(いつ)にして・・」(口語訳)「私は 私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を完うして、全国民が心を合わせて努力した結果・・」(続く)

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