2011年10月10日月曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(39) (20111010)

 “それだけなら珍しい話ではなかったかもしれないが、退位して上皇となった白河院は璋子を孫である第七十四代鳥羽天皇の中宮にしたのである。さらに、その後も白河院と璋子の男女関係は続いていたらしい。そしてそこに生まれたのが第七十五代崇徳(すとく)天皇であった。

 鳥羽天皇から見ると、崇徳天皇は自分の妃の子だから形式上は自分の子であるが、実の父親は祖父の白河院なのだから、実際は自分の叔父にあたる。それがわかっているから、鳥羽天皇は崇徳天皇を「わが子にして祖父の子」という意味で「叔父児」と呼び、忌み嫌っていた。

 白河天皇は上皇(後に出家して法皇)となった後、四十余年もの間、政治の実権を握り続けた。そして鳥羽天皇を二十歳の若さで退位させると、代わりに四歳の崇徳天皇を第七十五代天皇として即位させた。順番からいけば第七十六代天皇には、鳥羽上皇の名目上の長男である崇徳天皇の子の重仁(しげひと)親王がなるべきところだった。しかし、白河法皇が亡くなり実験を握った鳥羽上皇は、自分がされたのと同様に二十二歳の崇徳天皇を無理やり退位させ、自らと藤原得子(なりこ)(美福門院(びふくもんいん))との間に生まれた躰仁(なりひと)親王を即位させた。これが第七十六代近衛(このえ)天皇であり、崇徳天皇にとっては弟にあたる。

 ところが、この近衛天皇がわずか十七歳で亡くなってしまう。鳥羽上皇により若くして退位させられていた崇徳天皇は自分が復位するか、あるいは自分の子の重仁親王を皇位につけることを願った。しかし、鳥羽上皇は第七十七代天皇として、自分と璋子との間に生まれた第四皇子である雅仁(まさひと)親王を即位させた。これが後白河(ごしらかわ)天皇である。後白河天皇は崇徳天皇にとっては同母弟という関係になる。

 実は、後白河天皇が即位したのは、早くに母を失い美福門院が可愛がっていた後白河天皇の長男・守仁親王を皇位につけるためであった。それを実現するために、鳥羽上皇は守仁親王の父であり、それほど人気のなかった後白河を即位させたのである。

 崇徳上皇にしてみれば面白くない。形の上とはいえ自分は鳥羽帝の長男であるのだから、自分の復位が叶(かな)わないのなら、長男である重仁親王が皇位につくのが当然という思いがある。それゆえ鳥羽上皇が亡くなると、一週間も経たないうちに後白河上皇から皇位を奪い取ろうと兵を挙げる。ここに藤原氏の権力争いがからんで、保元(ほうげん)元年(一一五六)に「保元の乱」が勃発することになった。”

 皇室の乱れは国を危うくした。当時は一夫多妻が当たり前の時代である。この時の状況を現代的に言えば、自分は自分の母が曾祖父と関係をもって生まれた子であり、自分の法律上の父(実は曾祖父の子)が別の女性に生ませた子は自分の異母弟ということになる。
 私は皇室と貴族(今の大臣に相当)や諸大夫(今の中央官庁の官僚に相当)や武士たちとの関係は言わば「持ちつ持たれつ」のような関係であったと思う。     (続く)

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