2011年10月20日木曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(49) (20111020)

“当時の天皇の在位期間は八年程度で、これは互いに相手方に皇位が行っているときに、「早くこちらに回してくれ」と譲位を促したためである。その仲介役となった鎌倉幕府は、だんだん両統から督促(とくそく)が煩(わずら)わしくなってきた。そこで正安三年(一三〇一)、時宗の子供の貞時(さだとき)は、両統の即位を十年交代にすると決める。

 鎌倉幕府の権威が揺らがなければ、この方式は有効に機能したかもしれないが、幕府は元寇の後始末で弱体化していた。その結果、皇位継承は南北朝の争いへと発展していくことになるのである。”

“第九十六代後醍醐(ごだいご)天皇(大覚寺統/在位一三一八~一三三九)は気性が激しく、また学問に熱心であった。とりわけ好んだ学問が宋学(そうがく)、つまり朱子学(しゅしがく)であった。先に述べたように、南宋で生まれた朱子学は、蒙古(もうこ)の支配に対して自分たちこそ正統であるとし、それを明らかにする正統論や大義名分論を重んじた。後醍醐天皇は、この正統論に深く傾倒した。

後醍醐天皇は三十一歳で即位する。当時は幼帝が多く、こういう壮年の新天皇は珍しかった。宋学を学んで名分を重視していた後醍醐天皇は、「日本の正統たる天皇の地位が幕府の意向で決まり、皇位継承に幕府が干渉するのはゆるすことのできない不遜(ふそん)な行為である」と考えた。”

“十年で皇位を交替するという方式は幕府が勝手に決めたことであり、宋学の大義名分に照らして考えるとおかしいというのである。ちなみにこのような考え方は幕末維新の志士たちの行動原理にも通じる。志士たちは朱子学の名分論によって幕府の体制を非としたのである。

後醍醐天皇は、正統を守るためにはそれに介入する幕府を討たねばならないと考え、討幕復古の計画を立てる。”

“元弘(げんこう)元年(一三三一)、後醍醐天皇はあらためて討幕計画を練るが、再び計画は漏れてしまう。今度は幕府も黙ってはおらず、三千の兵を京都に送り武力制圧をはかる。天皇は三種(さんしゅ)の神器(じんき)を持って比叡山(ひえいざん)から奈良に逃げ、さらに笠置山(かさぎやま)に落ちる。・・(中略)・・

このとき、突如として後醍醐天皇を助けて兵を挙げたのが楠木正成(くすのきまさしげ)(一二九四?~一三三六)である。彼は宋学を学んでいたともいわれ、正統論から後醍醐天皇の味方をする立場になったようである。楠木正成は天皇と面会したあと、河内(かわち)の赤坂城に立てこもって幕府の大軍と戦いはじめる。”

700年近く前、後醍醐天皇は足利尊氏や新田義貞の働きで140年ぶりに武家の政権を倒し朝廷の政権を奪還することができた。しかしそれは長く続かなかった。平安時代の昔から天皇は象徴的な存在であられた。皇統は神武天皇から今上天皇まで男子一系で続いている。このような国は世界に類例がない。皇国史観をとり戻さなければならない。(続く)

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