2011年10月26日水曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(55) (20111026)

 “足利幕府は八代将軍義政(よしまさ)のとき、継承問題からこじれてくる。義政の正室日野富子(ひのとみこ)にはなかなか男子が生まれなかった。そこで自分の弟で仏門に入っていた義尋(ぎじん)を還俗(げんぞく)させ、足利義視(よしみ)と名を改めさせて次の将軍にしようとした。ところがその途端に日野富子は妊娠し、翌年男児(足利義尚(よしなお))を出産する。・・(中略)・・それぞれ有力な守護大名(しゅごだいみょう)が後見人となり対立するようになった。そして、細川と山名を軸に応仁(おうじん)元年(一四六七)、全国を二分した応仁の乱が起こるのである。・・(中略)・・

 応仁の乱は京都を荒廃させるなどマイナス面もあったが、日本の歴史に大きな影響を与えた。応仁の乱の前と後では、日本の貴族、豪族がほとんど入れ替わってしまうのである。皇室と公家のほかでそれ以前の名家で残るのは、島津(しまづ)、伊達(だて)など三つ、四つだけであり、残りはほとんどすべて入れ替わっている。・・(中略)・・

 応仁の乱とは、結局は相続争いであったといってよいだろう。

 応仁元年にはじまった応仁の乱は十一年も続いた。京都は戦場になり焼け野原となったが、大名がそれぞれ自分の領国に戻って、自国の経営につとめた。それに加えて、公家や禅僧が都を逃れ地方に散っていったことで全国各地で文化が興(おこ)った。

 例えば九州の菊池(きくち)家の菊池重朝(しげとも)は臨済宗の僧桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)を招き、学問の普及につとめた。この桂庵玄樹は後に島津家に招かれて、『大学章句(だいがくしょうく)』を出版するが、これは日本で初めて出版された朱子学の書物である。

 また関東管領上杉憲実(かんとうかんれいうえすぎのりざね)は、足利学校を再興し、円覚寺(えんかくじ)の僧を校長に招き、北宋で出版された貴重な書物(宋版(そうはん))を寄付している。この足利学校はフランシスコ・ザビエルも「日本最大の坂東(関東地方)のアカデミー」と記してヨーロッパでも知られるようになった。太田道灌(おおたどうかん)、上杉謙信(けんしん)、武田信玄(しんげん)など、関東に学問のある大名が出たのも足利学校の影響と考えられる。

 中央政府が弱体化するから、地方の豪族は自ら国を治める方法や民を手なずける方法などを工夫しなければならなかった。そこから、古今の制度を研究してみようという動きも起こった。また戦乱の都を離れて地方に下った公家の娘が大名に嫁(か)することもあった。このようにして地方に文化が広がったのである。

 またもう一つ特筆すべきなのは、伊勢神宮が庶民に支えられる全国的崇敬(すうけい)の対象となったことである。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用)

 物事には必ず表裏、前後、上下等二面性がある。悪いことがあればよいことが必ずある。歴史を見るにそのような見方でみるならば、日本が如何に良い国であったかよく分かる。戦後日本人は洗脳されていたから自虐史観に陥ってしまっていたのである。  (続く)

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