2011年10月4日火曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(33)(20111004)

国体(国の体質)変化

渡部昇一『日本史』(育鵬社)の表紙の裏面にこう書かれている。

 通史には史観が要る。日本の歴史という美しい「虹」を見るには視線が必要である。私の日本史観の特徴は次の二点だ。

 ⦿第一は、王朝の断絶がない日本では、神話の伝承は歴史研究から切り離せない。

 ⦿第二は、日本の国体(国の体質)は、断絶したことがないが、大きな変化は五回あり、今は六回目の変化を待っている時代である。

 この本には六回目の変化が何かということは具体的に書かれていないが、私はそれ憲法改正であると思っている。特に第9条の改正が必要である。

 過去の国体の変化についてこの本には次のように書かれている。

 一回目は用明(おうめい)天皇の仏教改宗。

 二回目は源頼朝が鎌倉幕府を開いたことによって、宮廷とは関係なく天下を武力で征服し、守護地頭を置いたことによる政治の原理の変化。

 三回目は承久の乱で三人の上皇が島流しにされ、順徳上皇の子で四歳だった仲恭(ちゅうきょう)天皇が在位七年で幕府によって廃されたこと。

 四回目は明治憲法の発布。

 五回目は敗戦による占領憲法の制定。

 実は、日本の敗戦により国体は断絶の危機にさらされた。天皇制の廃止である。しかし戦前駐日大使だったジョセフ・クラーク・グルーの働きによって天皇制は維持され、今日に至っている。

 歴史を辿れば、男系の皇統が断絶しそうなことが何度かあった。もし蘇我入鹿が中大兄皇子(後の天智天皇)によって誅伐されなかったら、例え天皇の血を引く皇女を妻に迎えたとしても蘇我入鹿の子孫(男子)が天皇になったかもしれない。神武天皇以来のY染色体遺伝子は途絶えることになったかもしれない。

 もし道鏡が天皇になった場合、道鏡がたとえ皇女または道鏡とただならぬ男女の関係にあったとされる女帝・称徳天皇との間に男子を得たとしても神武天皇以来のY染色体遺伝子は途絶えることになったかもしれない。

 称徳天皇は天武天皇の孫である淳仁(じゅんにん)天皇のとき上皇であった。その淳仁天皇が上皇と道鏡の関係を諌めたとき、淳仁天皇は上皇の怒りを買って追放され、上皇が重祚(じゅうそ)して再び天皇の地位に就いた。

 “称徳天皇は、「道鏡を皇位に付ければ天下泰平になるだろう」という宇佐(うさ)八幡の神託があったと聞かされる。しかし、迷った天皇は臣下の和気清麻呂(わけのきよまろ)(七三三~七九九)に命じて、もう一度宇佐八幡の神託を受けに行かせることを決める。”

                                     (続く)

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