2011年11月16日水曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(76) (20111116)

 “この攘夷派弾圧に舵(かじ)を切ったのが大老井伊直弼(いいなおすけ)だった。井伊直弼は攘夷の考えを持っていた孝明天皇から勅許(ちょっきょ)を得られないままアメリカと修好通商条約を結び、また、前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の子一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を次の将軍に推す協調派を無視して、紀州藩主徳川慶福(よしとみ)(後の家茂(いえもち))の将軍継嗣(けいし)指名を強引に行った。これに対して朝廷は、幕府が孝明天皇の意に反してアメリカと修好通商条約を結んだこと、一橋慶喜を次の将軍に推した大名たちを弾劾(だんがい)する文書を水戸藩士に渡した。この動きに激怒した井伊は、反対派を烈(はげ)しく弾圧した。これがいわゆる「安政(あんせい)の大獄(だいごく)」(一八五八~一八五九)である。

 この安政の大獄によって、尊王攘夷運動の急先鋒であった梅田雲浜(うめだうんぴん)や頼三樹三郎(らいみきさぶろう)(頼山陽の三男)、吉田松陰(よしだしょういん)らが刑死もしくは獄死している。また、橋本佐内(はしもとさない)は開国派であったにもかかわらず、藩主松平春嶽(まつだいらしゅんがく)を助けて一橋慶喜の擁立運動を行ったために処刑された。さらに、開国に反対する藩主徳川斉昭も蟄居(ちっきょ)させられた。

 藩主を蟄居させられ、さらに朝廷から水戸藩に渡った密勅の提出を求められた水戸藩士は憤慨した。そして安政七年(一八六〇)三月三日、十七人の水戸藩士と一人の薩摩藩士が江戸城桜田門外(さくらだもんがい)で井伊大老の行列を襲撃し、暗殺するという事件が起こった。「桜田門外の変」である。

 幕府の力が急に衰えたのは、この桜田門外の変が原因である。なんといっても幕府は武力政権である。徳川八百万石と称し、三河以来の武士団・旗本八万騎を抱えるといわれる徳川家の「武」の威信は当時の最大の権威であり、誰からも恐れられていた。武士の上には藩主がいる。殿様は武士から見れば絶対の存在である。その殿様の上にあるのが幕府なのである。そのため幕府は大公儀といわれ、雲の上に仰ぎ見るような存在であったのである。

 その武力政権のトップに君臨する大老が、あろうことか江戸城の前で痩(や)せ浪人に襲われて首を取られたのである。これは考えられない事態であり、幕府の権威が地に落ちたことを象徴的に示す事件であった。

 この桜田門外の変からわずか七年後に大政奉還(たいせいほうかん)が行われ、その二年後には明治天皇は江戸城にお入りになる・・(後略)。”

 近代史の部分は渡部昇一『決定版 日本史』を全文引用した。引用しながら日本が開国に至る歴史ドラマを眼の前で見る思いであった。私の意識がその時代に遡って延伸し、私はあたかもその現場に居合わせているような錯覚に陥った。物語ではなく、歴史書を読むということはそういうことである。

 進学受験のため歴史をただ単に年代と事実だけで追い、丸暗記するだけではこのような錯覚には決して陥らないだろう。                    (続く)

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